2012年12月16日

第29回 二条天皇(二条親政)

029-1

「何、父上が憲仁を皇太子にしようと企んでいるだと!!」


「いや、これはあくまで噂でございますれば・・・・。」


「父上の考えそうなことよ。よいな、確り探ってまいれ。」


「はっ。」



側近は慌てて二条天皇の前を辞した。


二条天皇は、後白河上皇と平滋子との間に生まれた憲仁王を警戒していた。


平氏一門が後白河上皇に就けば、一大事であった。


しかし、この陰謀には平清盛は関わっておらず、平時忠、平教盛、藤原成親と坊門信隆が主犯であった。


そこで二条天皇は清盛を更に尊重し、代わりに平時忠等陰謀に関わった者はすべからく解官した。








平治の乱の合戦が終息した
1229日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した


同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。


1160(永暦元)年正月、二条天皇は近衛天皇の皇后だった藤原多子(頼長の養女)を入内させ、自らの権威の安定につとめた。


実権を握った二条親政派の大炊御門経宗、葉室惟方は、後白河上皇に対する圧迫を強めた。


正月
6日、後白河上皇が八条堀河の勧修寺顕長邸に御幸して、桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけて視界を遮るという嫌がらせを行った。


後白河上皇は激怒して清盛に大炊御門経宗、葉室惟方の逮捕を命じ、
220日、清盛の郎等である藤原忠清、源為長が二人の身柄を拘束して、後白河上皇の眼前に引き据えて拷問にかけた。


貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、後白河上皇の二人に対する憎しみの深さを表している出来事であった。


大炊御門経宗、葉室惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものとも考えられる。


つまり清盛は、信西の与党でありつづけ、信西暗殺に関わった者たちを許さなかったのである。


2
22日、信西の子息が帰京を許され、入れ替わりに311日、大炊御門経宗が阿波、葉室惟方が長門に配流された。


同日、師仲、頼朝、希義もそれぞれ配流先に下っていった。


6
月には信西の首をとった源光保が謀反の疑いで薩摩に配流され、後に殺害された。


信西打倒に関わった者は、後白河院政派、二条親政派を問わず政界から一掃された
のである。

 



ところが、これからと言うところの
7月に、二条親政派は藤原隆信、雅長(師通の曾孫)が院昇殿停止処分を受けてしまう。


更に
8月には中宮姝子内親王が病により出家し、11月には後見人の美福門院が死去するなど、二条親政派の要人が次々と消えて、二条天皇の立場は不安定となり、後白河院政派が勢力を盛り返すきっかけを与えてしまった。


この後、表面的には二頭政治が行われたが、両派の対立は深く一触即発という状況であった。


ちなみに美福門院の遺領は暲子内親王が継承した

 



二条天皇が頼みとしたのは、藤原伊通(頼宗の玄孫)と平清盛だった。

伊通は太政大臣として二条天皇を補佐していた。


また乳母平時子を従三位典侍にするとともに、時子の夫である清盛を検非違使別当中納言にすることで、伊勢平氏を自らの兵力とした。


1161
(応保元)年9月、後白河上皇と平滋子の間に生まれた第七皇子(後の高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚した。


後白河上皇の多くの側近は二条天皇により処分され、後白河上皇の政治介入は停止されるという状況となる。


実権を掌握した二条天皇は、親政の拠点を押小路東洞院の内裏に据えて清盛に警護させた。


12
月には美福門院の皇女暲子内親王に八条院の院号を与えて准母となし、出家していた姝子内親王にも高松院の院号を与えた。


さらに、忠通の養女である藤原育子(徳大寺実能の娘)を中宮として、関白近衛基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。


1162
(応保2)年には、叔父の経宗を召還する一方、自らを呪詛した院近臣たちを配流するなど着々と政治基盤を固めていった。


二条天皇は悪僧、神人の統制令や荘園整理など、藤原信西の政策を踏襲して積極的な政務を展開する


政治から排除された後白河上皇は信仰の世界にのめりこみ、蓮華王院を造営して供養の日に二条天皇の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条天皇が拒んだことから恨みを抱いた。


蓮華王院には荘園、所領が寄進され、二条天皇は後白河上皇の院政復活の動きに警戒心を抱くことになる。


ところが
1165(長寛2)年2月、太政大臣の藤原伊通が亡くなり、二条天皇自らも病に倒れた。


6
月には前年に生まれたばかりの実子の順仁親王の立太子を行うとその日のうちに譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。




sunwu at 14:55│Comments(0)TrackBack(0)院政時代 

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