2012年12月15日

第28回 藤原信頼(平治の乱後半)

028-4

「ほう、これが逆賊信西の首か。」



まじまじと信頼が見る。



「こうなれば哀れよのう。さて義朝。」


「はっ。」


「これからは、この信頼が信西に代わって政を執り行うぞ。」



信西が自害した
1214日、内裏に二条天皇、後白河上皇を確保して政権を掌握した藤原信頼は、勝手に臨時除目を行った。


この除目で源義朝は播磨守、嫡子の頼朝は右兵衛権佐となった。


信頼の政権奪取には、大半の貴族が反感を抱いた。


特に、二条親政派は、義朝の武力を背景とした信頼の独断専行の行動を見て、次は信頼打倒の機会を伺っていた。


その最中、東国より兵を率いて馳せ上った義朝の長子義平は、直ちに清盛の帰路を待ち構えて討ち取るよう主張した。



「父上、清盛は信西に優遇されいたと聞いておりまする。帰路を待ち構えて打ち果たした方が後顧の憂いが無くなります。」


「そうだな。」


「いや、清盛は味方になる。清盛は私の姻戚じゃ。敵にはならん。」



こう言って、信頼はその必要はないと退けた。


信頼からみれば、嫡男信親と清盛の娘との婚姻により、清盛も自らの協力者になると見込んでいたのである。









平清盛は、紀伊国で京の異変を知った。


動転した清盛は、一時は九州へ落ち延びることも考えるが、紀伊の武士である湯浅宗重や熊野別当の湛快の協力により、
17日に帰京する。


帰京するまでに、伊藤景綱、館貞保などの伊賀、伊勢に点在する伊勢平氏の名だたる郎等たち多数が合流した。


これにより、清盛の配下は大きく膨張した。


それに対して義朝の配下は、反乱を成功させるために隠密裏に動いていたため、最低限の軍勢しかいなかった。


当然、義朝はこの事件が合戦に発展するなどとは想定していなかった。


このため、京都の軍事勢力は清盛の帰京で大きく変化し、義朝を背景とした信頼の軍事的優位は大きく揺らぐことになった。

 



028-5信西と親しかった三条公教は、信頼の専横に憤りを抱いて平清盛を説得した。


また、二条親政派の大炊御門経宗、葉室惟方にも接触を図って、共闘の策を探った。


三条公教と葉室惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、信西の従兄弟の藤原尹明が密命を帯びて内裏に参入した。


25
日早朝、清盛は信頼に配下の名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信頼の子の信親を送り返した。


信頼は、予想通り清盛が味方になったことを喜ぶが、義朝は信親を警護していた清盛の郎等が「一騎当千」の武者たちであったことから危惧を抱いた。


その夜には、葉室惟方が後白河上皇のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河上皇はすぐに仁和寺に脱出した。


日付が変わって
26日丑刻、二条天皇は内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。


葉室惟方の弟の成頼が、この事実を触れて回ったことで、公卿、諸大夫は続々と六波羅に集結した。


信頼と提携関係にあったはずの忠通、基実父子も六波羅に参入したことで、清盛は二条天皇と摂関家を擁して一気に官軍としての体裁を整えることになり、信頼、義朝に対して追討宣旨が下された。


つまり、この時点で藤原信頼、源義朝は朝敵とされたのである。

 



028-626
日早朝、天皇、上皇の脱出を知った信頼を筆頭とする後白河院政派は激しく動揺した。


信頼、成親は義朝と共に武装して出陣するが、源師仲は保身のために三種の神器の一つである内侍所(神鏡)を持ち出して逃亡した。


義朝側の戦力は、三条殿襲撃に参加したごく少数に限られていた。


清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために、六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男重盛と弟の頼盛が出陣した。


このとき陽明門を警護していた源光保は門の守りを放棄して清盛方に寝返るが、本来、光保は美福門院の家人で政治的には二条親政派であり、信西打倒のため義朝に協力していたに過ぎなかった訳である。


028-2平氏軍は予定通り退却し、義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく敗退した。


もともと源氏でも、源頼政は美福門院の家人であり、義朝に従属する立場ではなかった。


義朝は、平氏軍と頼政軍の攻撃を受けて、家臣が必死の防戦をしている間に戦場から脱出した。


藤原信頼、成親は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭した。


清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、信西殺害、三条殿襲撃の首謀者であり、最後まで武装して参戦していたことから武士とみなされて処刑された。


成親は重盛室の兄という理由で、特別に助命された。


逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出頭するが処罰は厳しく、下野国への配流が決定した。


028-3義朝は東国への脱出を図るが、途中で三男頼朝とはぐれ、次男朝長、大叔父義隆を失い、
1229日に尾張国内海荘司の長田忠致の邸にたどり着いたところを、鎌田正家とともに殺害された。


義朝と正家の首は、正月
9日、京都で獄門に晒された。


長男義平は
18日、難波経房の郎等橘俊綱に捕らえられ、21日、六条河原で処刑された。


頼朝も
29日、頼盛の郎等平宗清に捕まり、やはり処刑されるところを清盛の継母池禅尼の嘆願で助命された。


この背景には頼朝が上西門院の蔵人をつとめていたため、上西門院とその近臣であり、頼朝の母の実家である熱田大宮司家が、待賢門院近臣家出身の池禅尼に働きかけたからである。


義朝と行動を共にした多くの者が滅亡の運命を辿り、ここに後白河院政派は事実上壊滅することになった。




sunwu at 14:09│Comments(0)TrackBack(0)院政時代 

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