2012年12月14日

第27回 藤原信西(平治の乱前半)

0027-1

「今や、信西如きがわが世の春か。」


「主要な役職は、全て奴めの近親者で固められておる。」


「後白河天皇のご寵愛を良いことに・・・・。」



このような陰口が宮中内で囁かれていたが、後白河天皇を擁する信西には、誰も手出しができなかった。


ところが、そこに美福門院の登場で大きく状況が変わるのである。


もともと後白河天皇の即位は、美福門院の養子である守仁親王が成長するまでの中継ぎとして実現したものであった。


成長した守仁親王の即位を迫る美福門院の要求を信西は拒むことができず、「仏と仏との評定」、すなわち美福門院と信西の協議の結果、後白河天皇は守仁親王に譲位させられてしまった。


後白河天皇は、信西が守ってくれると考えていたが、その期待が見事に裏切られたのである。


そもそも信西は鳥羽法皇の側近であったので、後白河天皇と同様に美福門院とも近い関係であった。


守仁親王が即位して二条天皇となっても、直ぐに排斥されるのは信西ではなく、後白河上皇であったのである。









保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏
9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。


これを先導したのは、側近の信西であった。

 


第一条の冒頭に「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」(全国土は治天の君の所有である。王命以外に誰が私的な威光を示すことが許されるであろうか)と述べて王土思想を前面に掲げ、非律令制的な土地所有形態である荘園(私領)の存在を前提として、全ての公領、私領の最終的な支配者は天皇あるいは最上級の権門である「天皇家」の家長としての治天の君であることを明確に宣言した


これは、天皇(治天の君)が公的な政府機構の最高位者であると同時に、私的集団である各種権門(荘園領主)を統制、利害調整する最高位者であるとする自らの位置づけを図ったものであった。


ただし、住吉社に通達された「壬生家文書」では第一条が除外されており、荘園領主に直接宣言したのではなく、国司宛の官符として朝廷内部に向けて為されたものである。


この文言は平将門の乱の際の追討太政官符にある「一天の下、寧んぞ王土あらざらん。九州の内、誰か公民あらざらん」という文章に基づき、信西らは将門の乱の時と同様王権の危機を乗り越えるために、虚勢に近いほど強烈な言葉をもって後白河天皇の王権を支えようとしたとみられる。


第一条と第二条はいわゆる荘園整理令に相当し、第一条は後白河天皇が践祚した久寿
2724日以後に宣旨を持たずに立てられた荘園を停止し、新立を認めないとした。


これによって荘園設置の許認可権を天皇の手中に収めることで荘園規制を行おうとしたのである。


第二条は既存荘園の本免以外の加納余田及び荘民に濫行の停止を命じた。


当時において深刻であったのは新立荘園の増加よりも既存の荘園に住む荘民が「出作」・「加納」と称して荘園の四至の外側にある公田を耕作して、最終的に耕作した公田を荘民の土地の一部と主張して国司の影響力を排除して強引に荘園の一部に編入する行為がしばしば行われていたことが問題視されていた。


新立よりも、より取締が困難な出作、加納の規制に本格的に取り組もうとしたのが第二条の意図であった。


第三条から第五条は寺社及びそこに属する神人や悪僧による濫行を規制したもの
で、第一条にしても第二条にしても問題となる行為の発生は宗教的な権威を背景として公権力の介入を拒んできた社寺勢力と、その荘園が舞台になっていることを朝廷側も認識した上で、彼らに対する威圧を目的としたものであった。


第三条は神社・神人に向けて、第四条は寺院・悪僧に向けて出され、第五条は国司に対して、自国内の寺社による濫行を規制するための措置を命じている。


第六条と第七条は寺社の荘園拡大を規制するために、寺社がその主たる宗教活動である神事・仏事にかかる必要経費を予め報告させるように命じたもので、宗教活動の維持を名目とした荘園の拡大・新立を防ぐ意図があり、第六条は神社(伊勢神宮以下主要
22社)に向けて、第七条は寺院(東大寺以下主要10ヶ寺)に向けて命じている。

 

 



これに続いて、翌
10月には記録荘園券契所が復活され、荘園に関する審査が実際に行われた。


更に保元
2317日には、新制の実施意図の徹底のために、既に第一条から第五条までがほぼそのままで改めて太政官符として改めて発令された。


続いて同年
108日には、荘園整理以外の分野にも広げた第二次の新制35ヶ条が出された。


ただし、この
35ヶ条に関する記録は伝わっておらず、後世の新制や記録から12ヶ条程の内容が判明しているに過ぎない。


それによれば寺社規制に加えて、京都市中の犯罪取締や過差取締による治安・風俗規制、朝廷公事の振興などの政治・治安の再建政策が中心であったと考えられている。


また、同年には内裏の再建が行われたが、その時の造営費用は全ての公領、私領の支配者である後白河天皇の宣旨に基づく一国平均役として公領、私領の区別なく賦課され、違反する荘園には没収や領家の交替を行うことが布告された。

 



この新制が後白河天皇の親政及び院政の基調となる法令であり、その後の治承新制、文治新制、建久新制と並んで後白河天皇を中核とする朝廷政治の基本路線とされた。


だが保元新制が出された当時、鳥羽法皇が後継に指名した後白河天皇の皇太子守仁親王(二条天皇)こそが正統な治天の君であり、崇徳上皇、後白河天皇ともに治天の君の資格を最初から持っていないという見方もあった。


治天の君としての安定性に欠けた後白河天皇の政治的立場が安定して、院政を軌道に乗せるためには、更に平治の乱や二条天皇崩御などの諸事件を経る必要があった。

 




復活させた記録荘園券契所の長官である上卿には、大納言の三条公教が就任した。


実務を担当する弁官からは右中弁の葉室惟方(観修寺流)、左少弁の源雅頼(村上源氏)、右少弁の藤原俊憲(信西の嫡子)が起用され、その下で
21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたった。


さらに内裏の復興にも着手して、
1157(保元2)年10月に再建した。


この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする俊憲、貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、紀二位(後白河天皇の乳母)を母とする成憲、脩憲はそれぞれ遠江国、美濃国の受領となった。


信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその預所になるなど、経済基盤の確保にも余念がなかった。

 



また信西は国政改革推進のため、平清盛を厚遇した。


伊勢平氏一門は、北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めて、さらに勢力を拡大していた。


また信西にとっては、荘園整理や荘官・百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、伊勢平氏の武力は不可欠であった


大和守に平基盛が任じられたのも、伊勢平氏に対する期待の現れといえる。


大和は興福寺の荘園が充満していて、これまで検地を行おうとしても神人、悪僧の抵抗により、尽く失敗に終わっていた。


清盛は武力を背景に検地を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなどの柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。


更に清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。


そこで信西は、実子成憲と清盛の女の婚姻によって伊勢平氏との提携を世間に示して、改革が順調に進むようにした。

 



しかし、後白河院政派とは別のもう一つの政治勢力が、宮中には存在していた。


それは、美福門院を中心とした皇太子守仁親王の擁立を図る勢力である。


これを仮に二条親政派とする。


美福門院は、鳥羽法皇から大半の荘園を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を信西でさえ無視することはできなかった。


美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子であり後白河天皇の実子である守仁親王の即位を、信西に要求した。


信西はこの要求を拒むことができず、守仁親王が即位して二条天皇となる。


ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることとなった。


二条親政派は大炊御門経宗(二条の伯父、師実の孫)と葉室惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河上皇の政治活動を抑圧する。


これに対して後白河上皇は、近衛天皇の急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れる者は信西のみであったが、その信西が譲位に関しては頼りにならなかった。


そこで後白河上皇は、自らの院政を支える別の近臣の育成が急務となった。

 



後白河上皇は、鳥羽法皇の近臣であった藤原忠隆の四男で、このとき武蔵守の北家道隆系の藤原信頼に目を付ける。


1157
(保元2)年3月に、信頼は右近衛権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。


元々信頼の一門は武蔵、陸奥を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝とも連携していた。


1158
(保元3)年8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。


義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固なものとなる。


義朝の武力という切り札を得た信頼は、更に勢力を拡大し、自らの妹と摂関家の嫡子である基実の婚姻をも実現させる。


摂関家は保元の乱によって忠実の知行国、頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで、各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を著しく後退させていた。


混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。


027-2後白河法皇の近臣としては他にも、藤原成親(藤原家成の三男)や源師仲(村上源氏)が加わり院政派の陣容も整えられた。

 



ここに朝廷の中で、信西一門、二条親政派、後白河院政派、平氏一門というそれぞれ利害関係が異なる集団が、形成されることに至った訳である。

 



「信西は、上皇さまを裏切った難い奴だ。成敗せねばなるまい。」


「確かに、信西一門を排除せねば、二条天皇のご親政ができぬ。」


「ここは一つ、天皇派、上皇派の争いは脇に置いて信西排除に協力しようではないか。」


「うむ、その方が良い。」




誰がこのような会話をしたかわかっていない。


しかし、二条親政派と後白河院政派を牛耳る二人が信西排除に動いたのは確かである。

 



027-3信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因である。


1159
(平治元)年12月、信西が優遇していた平清盛が熊野参詣に赴いたことで、信西一門を守護する武力が消えたときに、反信西一門の二派は決起した。

 



12
9日深夜、藤原信頼を中心とした武将らの軍勢が院御所である三条殿を襲撃した。


信頼らは後白河上皇と上西門院(後白河上皇の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて、逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。


警備にあたっていた者が犠牲となるが、信西一門はすでに逃亡した後だった。


信頼らは、後白河上皇と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移し、軟禁状態にした。


後白河上皇を乗せる車は源師仲が用意した。


10日には、信西の子四人(俊憲、貞憲、成憲、脩憲)が逮捕され、22日に全員の配流が決定した。


山城国田原に逃れた信西は、源光保の追撃を振り切れず、郎等の藤原師光(西光)らに命じて自らを地中に埋めさせて自害した。


光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。


信西の放った輝きは、一瞬で消えたのである。


ちなみに源光保は美福門院の家人であり、二条親政派もこの事件に加わっていたことがわかる。




sunwu at 13:46│Comments(0)TrackBack(0)院政時代 

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