2012年12月11日

第26回 後白河天皇(保元の乱)

026-1

「陛下、時は満ちましたぞ。」


「信西、待ちわびたぞ。好きにするが良い。」


「はっ。」



後白河天皇の前から下がった信西は、高階俊成と源義朝に、兵を率いて頼長の邸宅を急襲して没官するように命じた。


追い詰められた藤原頼長は、大義名分を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決めた。



「上皇さま、今が好機ですぞ。上皇さまを蔑ろにする美福門院や後白河天皇を討つには、今しかありません。」



崇徳上皇は気乗りしなかったが、鳥羽法皇崩御の時の屈辱感を思い出して、頼長に担がれることを決めた。







1156
(保元元)年72日、鳥羽法皇が崩御した。


鳥羽法皇の荘園の多くは、愛妾の藤原得子(美福門院)が継承した。


鳥羽法皇の死は、その権威を後盾にして崇徳上皇や頼長派を抑圧していた美福門院、藤原忠通、院近臣たちにとっては重大な危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなった。

 



崇徳上皇は鳥羽法皇の臨終直前に見舞いに訪れたが、対面できなかった。


崇徳上皇は憤慨して、鳥羽田中殿に引き返した。


法皇の葬儀は酉の刻より少数の近臣が執り行った。


7
5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、後白河天皇は京中の武士の動きを停止する措置を取った。

 



そして法皇の初七日に当たる
78日に、終に事は決行された。


藤原忠実、頼長親子が、荘園から軍兵を集めることの停止を命ずる後白河天皇の綸旨が、諸国に下されると同時に、藤原頼長が没官された。


没官とは、謀反人に対する財産没収の刑のこと
であり、頼長には謀反の罪がかけられたことを意味する。


この一連の措置には後白河天皇の勅命と綸旨が用いられているが、実際に背後で操っていたのは、側近であり乳父である信西であった。



「摂関家が今の狂った世を作り出したのだ。これを正しい形に戻さねばなりませぬ。」


「正しい形??」


「左様、陛下を中心にした国造りでございます。」



この前後に忠実、頼長が何らかの行動を起こした形跡はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河天皇を擁する美福門院、忠通、院近臣陣営が、崇徳上皇、頼長らを排除するために挑発を開始したのである。

 



忠実、頼長親子は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなってしまうことになる。


10
日の夜、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。


謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳上皇を担ぐことを決意した。


白河北殿には、貴族では崇徳上皇の側近、武士では源為義、平忠正などが集結する。


武士は崇徳上皇の従者を除くと、残りは摂関家たる忠実の家人だけであった。


崇徳上皇陣営の武士は、摂関家の私兵集団に限定されており、甚だ貧弱な兵力であり、劣勢なのは明白であった。


崇徳上皇は、今は亡き平忠盛が、子の重仁親王の後見であったことから、その子である平清盛が味方になることに一縷の望みを繋いだが、重仁親王の乳母であった池禅尼は、崇徳上皇方の敗北を予測して、実子の頼盛に対して清盛と共に天皇に協力することを命じた。


白河北殿では軍議が開かた。



「敵は大勢に対して味方は寡勢。正攻法では勝て申さぬ。ここは後白河天皇がおわす高松殿に夜襲をかけるが良かろう。」



為朝が献策する。



「味方は寡勢ゆえ、援軍を待とう。今に信実率いる興福寺の悪僧集団が来てくれる。」



と、頼長は慎重論を言って、為朝の策を採用しなかった。


為朝が憮然としたのは言うまでも無い。


合戦の専門家である武士に対して素人の貴族が口出ししている時点で、崇徳上皇方は敗れたと言って良い。

 



これに対して後白河天皇派は、崇徳上皇の動きを察知して同じように武士の動員を開始する。


高松殿を警備していた源義朝、源(足利)義康に加え、平清盛、源頼政らが続々と召集され、周囲は軍兵で埋め尽くされた。


同日、忠通、基実父子も後白河法皇方に参入している。



「頼長も、崇徳上皇を抑えて大義名分を手に入れました。これは即座に打つべきです。」


「義朝殿の策にこそ正義あり。時間が経てば、我らが攻めあぐねていると勘違いし、上皇方に寝返る輩が出るとも限りませぬ。」


「左様、先に戦の主導権を握った方が勝つものです。」



義朝、清盛、信西らは、先制攻撃を強硬に主張した



「いや、恐れ多くも崇徳上皇さまに対して弓引くことは・・・・。」



藤原忠通が逡巡していたが、最終的には強硬派である武士たちに押し切られてしまった。


貴族の意見を武士が押し切った時点で、後白河天皇方は勝ったと言って良い。

 



026-47
11日寅の刻に戦闘の火蓋が切って落とされた。


後白河天皇は三種の神器とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、平頼盛が数百の兵で周囲を警戒した。


上皇方は、源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、平清盛軍は有力郎等の藤原忠直と山田是行がその矢の犠牲となるなど、大打撃を被った。


源義朝軍も
50名を超える死傷者を出して、撤退を余儀なくされる。


攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として摂津源氏の源頼政らを投入した。


そこに義朝が駆け戻って来た。



「申し上げます。頼長たちが籠る白河北殿は、家成さまの邸の直ぐ東側にございます。今は危急の時故、家成さまの邸に火を放ち、白河北殿に燃え移らせれば良いかと愚考仕る。風も西から吹いてる故、好機かと存じます。」


「よし、放火を許す。」



026-2信西は、躊躇なく指示した。


義朝が藤原家成の邸に火を放つと、瞬く間に白河北殿に燃え移った。


辰の刻には火事により上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や藤原頼長は御所を脱出して行方を晦ました。

 



天皇方は残敵掃討のために法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺にある住居を焼き払った。


後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻には清盛、義朝も帰参して戦闘は終結した。


頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都へ逃亡した。


合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。


清盛は播磨守、義朝は右馬権頭に補任され、義朝と義康は内昇殿が認められた。


氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命するものではなかった。


忠通としては、藤原家内部のことに対して天皇が介入することに不満を抱いたため、吉日に受けると称して辞退した。

 



13
日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭した。


頼長は合戦で首に流れ矢が刺さる重傷を負い
14日に死去した。


崇徳上皇の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族、武士は続々と投降した。


15
日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。


摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する荘園は膨大なものであり、没収されることになれば、摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れた。


そして、
18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられた。


なお、この綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」と留保条件がつけられていた。


これを逆に言えば、氏長者にならなければ荘園を没収するという意味であり、忠通に天皇から任命される氏長者の受諾を迫るものであった。


19
日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾した。


そして
20日には、忠実から忠通に「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」と「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。


摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きが取られることで、辛うじて没収を免れることができた。


026-323
日、崇徳上皇は讃岐に配流された


天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ
400
年ぶりの出来事だった。


崇徳上皇は二度と京の地を踏むことはなく、
8年後の長寛21164)年にこの世を去った。


重仁親王は寛暁(堀河天皇の皇子)の弟子として出家することを条件に罪は不問とされた。


27
日、頼長の子息や藤原教長らの貴族、源為義、平忠正らの武士に罪名の宣旨が下った。


忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。


武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、
28日に忠正が、30日に為義が一族もろとも斬首された。


死刑の復活には疑問の声も上がったが、信西の裁断に反論できる者はいなかった。


信西は、摂関家の勢力を尽く削ぐことに執念を燃やしていた。


だから、その実働部隊である武士を全て斬首にさせたのである。


貴族は流罪となり、
83日にそれぞれの配流先へ下っていった。


8
26日、ただ一人逃亡していた為朝も、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられ、伊豆大島に配流された。


こうして天皇方は上皇方の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。

 



026-5この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家であった


忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。


武士、悪僧の預所改易で、荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、藤原氏の所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退することになった。


忠通は
1158(保元3)年4月の藤原信頼との騒擾事件では、一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ、政治の中枢から外れていった。


乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど、政務に辣腕を振るった。


信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は、旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。


さらに院近臣も後白河上皇を支持する派閥(後白河院政派)と、二条天皇を支持する派閥(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。


この対立は
1159(平治元)年に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる。

 



この頃になると、武士は苗字、公家は家号を用い始めることになる。


元々は氏で、血族の繋がりを現していたが、血族が大きく広がり過ぎことことにより、氏だけでは個人の特定が難しくなった。


そこで武士は所領の地名を苗字とし、公家は自宅のある場所を家号としたのである。


だから、源義仲と木曽義仲は同一人物であり、源が氏で、木曽が苗字となる。


藤原基房と松殿基房も同一人物であり、藤原が氏で、松殿が家号となる。




sunwu at 11:08│Comments(0)TrackBack(0)院政時代 

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