2012年12月06日

第25回 鳥羽上皇(院政の確立と摂関政治の衰退)

025-1

1129(大治4)年77日に77歳で白河法皇が崩御すると、治天の君は鳥羽上皇に移った。



「やっと白河法皇が死んだか。」


「陛下の忍従も、やっと晴れますな。」


「これまで耐えられたのも、家成、そちのお陰ぞ。」


「勿体ないお言葉でございます。」

 


鳥羽上皇は、白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して、娘の泰子を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。


さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮璋子に代わり、院近臣であった藤原長実の娘得子(美福門院)を寵愛した。


そして、その間に生まれた皇子である体仁親王を近衛天皇として即位させた。


このとき、皇太子ではなく、皇太弟として即位したので、崇徳上皇の院政への道は閉ざされることになった。



「皇太弟としたことで、上皇さまは酷く御立腹とか。」



得子が鳥羽上皇に言う。



「叔父御(崇徳)に皇統を継がせる訳が無かろう。」



鳥羽上皇は、崇徳上皇を自分の子とは考えておらず、白河法皇の子と考えていた。


だから「叔父御」と言うのである。



「皇統は、我が子孫が継ぐのだ。」








1132
(天承2)年、忠実は再び内覧の宣旨を賜る。


忠実が再び内覧となって政務を執る一方で、名ばかりとなってしまった忠通にも関白としての矜持があったことから、父子の関係は権勢を巡って次第に悪化していくことになる。

 



1142
(康治元)年には東大寺戒壇院にて受戒し、鳥羽上皇は法皇となった。


025-2また同年、忠通に実子の基実が生まれると、摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望んだ忠通は、頼長との養子縁組を破棄する。


この頃は、藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立しており、平忠盛は妻の宗子が家成の従兄弟同士であったことから、二人は親密な関係を築いていた。


更に忠盛は経済感覚に優れており、民間で行われていた日宋貿易に着目した。


更に瀬戸内海の海賊追捕使に任命され、西国への勢力伸長を目指し、結果として巨万の富を得ることになる。

 



1147
(久安3)年、左右両大臣の不在によって一上となった藤原頼長は、大いに政務の再興を図って、兄の摂政藤原忠通を圧倒するようになる。


以前書いたとおり、摂政関白は令外官であり、天皇との私的な繋がりによって権力が左右されたからである。


025-41150
(久安6)年、近衛天皇が元服し、正月に頼長が養女の多子(徳大寺公能の娘:藤原公実の孫)を入内させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女の呈子(藤原伊通の娘:道長次男の玄孫)を入内させた。


呈子は藤原得子の養女でもあったため、忠通は藤原得子勢力と連携することで、摂関の権限の保持を図ったと考えられる。


ここで鳥羽法皇は、多子を皇后、呈子を中宮にし、両者の対立に深入りしないようにした。


しかし、忠通に激怒した父忠実は、
926日、源為義、頼賢らに命じて摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する行動に出た。


1151(仁平元)年正月3日、忠実は源頼賢に命じて、忠通に譲渡していた師実、師通の日記正本をも没収し、頼長に与えた。


異母姉の高陽院も頼長の後ろ盾となり、頼長は彼女が所有していた東三条殿と並ぶ摂関家の拠点である土御門殿を譲られた。


鳥羽法皇は先の入内問題と同じく、摂関家の親兄弟の争いに対しても曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長に内覧の宣旨を下した。


頼長に一上に内覧を兼務させることは、道長と同じように摂政関白を超える権限を得ることにが可能となったことを意味する。

 



この対立が、摂関家における保元の乱の原因の一つとなった。


また鳥羽法皇は、崇徳上皇を疎んでいたことが、天皇家における保元の乱の原因となった。

 



内覧となった頼長は旧儀復興と綱紀粛正に取り組む
ことになるが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ、院近臣との間に軋轢を生むことになった。

 

忠実は院近臣の家成とは協調的な態度を取っていたが、子の頼長は家成を「天下無双の幸人なり」と評して、その勢威に警戒感を示した。


1145
(天養2)年2月、家成は義弟の源雅通と娘婿の藤原公親を前駆として比叡山に登ったが、頼長は清華家(英雄家)出身の雅通、公親が諸大夫出身の家成の前駆を勤めたことを、「永く英雄の名を失う」と非難した。


1151
(仁平元)年、こうしたことを背景に、従者同士の諍いを口実にした頼長に、家成は邸宅を襲撃され、散々に破壊されるという災難を蒙っている。


この頼長の性急かつ短絡的行動は鳥羽法皇の激怒を買い、頼長の失脚とそれにつながる保元の乱勃発の伏線となった。


1153
(仁平3)年、このような状況の中、近衛天皇が重病に陥る。


後継者としては、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が有力であったが、忠通は藤原得子(美福門院)の養子となっていた雅仁親王の第一皇子である守仁親王への譲位を法皇に奏上する。


この提案を、鳥羽法皇は一旦拒絶したものの、藤原得子(美福門院)と忠通は崇徳上皇の院政を阻止するために、守仁親王擁立の実現に向けて動き出すことになる。


近衛天皇が崩御すると、後継ぎとして当然の如く重仁親王、守仁親王の名が上がった。


しかし結局は、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、その父である雅仁親王が立太子しないまま
29歳で即位することになった。


これが、後白河天皇である。


守仁親王はまだ年少であったということと、実父の雅仁親王が存命で出家もしていないのに、飛び越えて即位するのは道義上問題があるのではないか、との声が上がったためだった。


025-3突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で鳥羽上皇近臣の藤原信西(高階通憲)の策動があった。


この重要な時期に頼長は、妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、既に世間では近衛天皇の死は忠実、頼長が呪詛したためだという噂が流されており、内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。


口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。


住僧に尋ねてみると「
56年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという。


後白河天皇が即位すると、後白河天皇と藤原忻子、守仁親王と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。


忻子は頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は藤原得子(美福門院)の娘だが、統子内親王(藤原璋子の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。


待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、後白河天皇、忠通一派には、崇徳上皇、頼長派の支持勢力を切り崩す狙いがあった。

 




この時代の文化を院政期文化という。

 


院政期は、治天の君による仏教保護政策などによって寺社の世俗化のおおいに進展した時期であったが、その反面にはこうした寺社の世俗化をきらって特定の寺院に属さない「聖」や「上人」とよばれる民間布教者が現れ、特に浄土教の教えを京の都はもとより地方へも広めていった時期である。

 


025-5京と琵琶湖岸の要津であった坂本とをつなぐ白河の地には、法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺及び延勝寺
六勝寺が建ち並び、北野神社とその周辺、さらにまた、多くの離宮が建てられた鳥羽周辺の京都南郊もまた宇治川や淀川と結びついて新たな都市的空間となりつつあった。


当時の京都は、このように全体として新都市の様相を呈しており、そこでは王権の強化にともなう各種の美術品の創作がみられた。


院は、古代国家の復活を願ったところから、その芸術には復古的な傾向がうかがわれ、離宮や御所の宝蔵には国内外の宝物が集められ、王権はさまざまな形で表現された。


地方の文物は、かつてないほど都に流入していったのである。

 


中央の文化も広く地方へ伝播していった。


それは主に奥州平泉の中尊寺金色堂、陸奥の白水阿弥陀堂、伯耆の三仏寺投入堂、豊後の富貴寺大堂など、寺院建築の遺構にその傾向が顕著にうかがえる。


また平清盛ゆかりの安芸の厳島神社も当時の地方の文化水準の高さを物語る。

 


没落しつつある貴族層の関心が庶民や新興階級である武士に向かったのも院政期であった。


それは、軍記物の執筆や説話集の編纂、また、新しい絵画である絵巻物の画題などにもよくあらわれている。


さらに、後白河法皇による『梁塵秘抄』の編纂や、芸能化され貴賤問わず大流行した田楽のように、貴族と庶民の文化交流も広汎にみられた。


その一方で『栄花物語』など懐古的傾向をもつ歴史物語もつくられた。

和歌にも新傾向がみられる。

 


院政期文化は総じて、貴族の文化的関心が都での現実生活から、地方、庶民、歴史へと向かう傾向が顕著であり、また、武士、庶民文化の萌芽もみられる点を大きな特色としている。

 


仏教では、釈迦入滅後を正法、像法、末法
3時代に区分している。


末法思想とは、こうした時代区分にもとづく仏法衰滅を説く宿命的歴史観であり、平安時代中葉には正法、像法各千年説が有力となって永承
7年(1052年)が末法の初年と考えられた。


当時、武士の台頭や僧兵の横暴、公家勢力の後退などによる社会不安、天変地異、疫病、火災などの自然災害を経験した人びとは、はっきりと末法を意識するようになり、無常観や厭世観がかき立てられていった。


こうしたなか、西方極楽浄土への往生を願う浄土教が盛行し、末法思想の流行に拍車をかけた。

 



025-6法然上人
の末法思想は多くの貴族の心を深くとらえ、阿弥陀堂が各地に造営されたが、こうした浄土教の普及に力があったのは、むしろ既成の教団や寺院から離れ、山林に入り、あるいは遍歴して独自の活動を展開した聖、あるいは上人とよばれた求道者であった。


聖は、寺院において学問を旨とする学徒に対し、寺院経済を支える禅徒の立場にあり、既成の寺院から離れて別所と呼ばれる地をその活動拠点とすることが多かった。


そのなかで高野山を別所としたのが高野聖である。


聖たちは、山林修行や諸国遊行を主としながらも造寺、造塔、写経、供養、鋳鐘、架橋や道路、港湾建設の勧進などの多彩な活動を通じて、民衆からの尊崇と支持を獲得していった。

 



それまでの加持祈祷や学問中心の仏教から、内面的な深まりを持ちながら、庶民など広い階層を対象とする新しい仏教への変化が胎動していった。


はじめ天台宗の教学を学んだ法然は、承安
5年(1175年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖とあおがれて鎌倉新仏教の嚆矢とされた。


法然の教えは摂関家の九条兼実ら中央の貴族をはじめ、地方の武士や庶民にまで広まった。


025-7その弟子は、浄土真宗を開いた親鸞はじめ、きわめて多きにわたっている。


また、女性に初めて布教をおこなったのも法然であった。




sunwu at 11:54│Comments(0)TrackBack(0)院政時代 

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