2012年12月05日

第24回 白河法皇(院政の開始)

024-1

1107(嘉承2)年、その堀河天皇も29歳で崩御し、宗仁親王が5歳で即位した。


これが鳥羽天皇である。



「俊明よ。」


「はっ。」


「善仁が
29歳の若さで崩御し、孫の宗仁は僅か5歳。そこに関白はあの頼りない忠実じゃ。これでは、のんびりと隠居している訳にはいかんのう。」


「御意に御座います。」


「ところで公実より、宗仁の外伯父ということで、摂政の位に任じて欲しいとの申し立てがある。忠実は、頼りないゆえ、公実に任せてみようと思うが、どうじゃ。」


「その儀は、お退けあそばす方が宜しいかと存じます。頼通、師実、師通殿が摂政関白として廟堂に尽くされた功績は大きく、その嫡流である忠実殿を抑えて、公季殿以後、
5代傍流であり続けた公実殿を摂政に任ずるのは、御堂家を蔑ろにすることとなります。」


「わかった。公実の望みは取り上げないことにする。」



堀河天皇が崩御し、関白忠実が頼りにならない現実から、自然と白河法皇自身が国政を先導せざるを得なくなり、後に
院政と呼ばれる政治を開始することになる。


院政の権限の源泉は、天皇の直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能とた。


このとき、忠実と摂関家にとっては、最大の危機が鳥羽天皇の践祚と共に起こった。


白河法皇も摂関職を誰に任せるか一時迷うが、院庁別当の源俊明(醍醐源氏)の反対でその望みは斥けられ、忠実は辛くも摂関の地位を保持することができた。

これ以降、天皇の外戚に関係なく、藤原忠実の子孫のみが摂政関白に昇れるようになった。








源義家の後継ぎであり、当時対馬守であった義親は、九州で略奪及び官吏の殺害を行ったため、
1101 (康和3)年に大宰大弐の大江匡房から訴えられ、朝廷で追討が議される。


これに対して藤原忠実は、自ら判断を下せなかった。


024-2源義親は清和源氏であり、摂関家の与党であったからである。


1102(康和4)年、朝廷は義親を隠岐国へ流罪とする。


だが、義親は配所には赴かず、出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。


このため、いよいよ父親たる義家自ら追討へ赴かねばならない状況になったが、
1106(嘉承元)年に義家は死去してしまう。


義家は、義親の子である為義を後継ぎに指名し、成長するまでは四男義忠を中継ぎとした。


これに対して、伊勢平氏の平正度、正衡親子は、伊勢国で着実に勢力を広げていた。


そして、正衡の子正盛は、再び京に出て自身が開発した伊賀の荘園を白河法皇に寄進して、その配下になっていた。


更に、娘を源義忠に嫁がせ、先行勢力である清和源氏に取り入ることに成功する。


024-3義忠は、正盛の嫡男忠盛の烏帽子親となり、一字を与えて忠盛と名乗らせている。


法皇は、その正盛に対して義家が亡くなった後の義親討伐を命令じ、正盛は見事義親を打ち破っている。


このことが、法皇の信任が源氏から平氏に傾く一因になったといえる。

義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど積極的に活動した。


また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にして伊勢平氏との和合をはかり、親密な関係を築いた。


そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。


しかし、河内源氏の中では、新興勢力である伊勢平氏を蔑視し、対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満を持つ者が多かった。


また、伊勢平氏と和合することで、院政に接近した義忠個人が勢力を伸ばすことを快く思わない勢力も一族内に存在した。


更に、義家に比べて武威に劣る義忠を軽んじ、自らが義忠に取って代わろうとする者もいた。

 



1107
(嘉承2)年、義忠の叔父に当たる源新羅三郎義光が、義忠の権勢が高まるのに不満を持ち、自らが河内源氏の棟梁になる野望を持ち、家人で長男である源義業の妻の兄の鹿島三郎に義忠を襲わせた。


義忠は鹿島三郎との斬り合いで重傷を負い、その傷が元で死去した。


鹿島三郎は義光の弟である園城寺の僧侶快誉の下へ逃げて保護を求めたが、快誉によって口封じのために殺害された。


当初、義忠暗殺は、もう一人の叔父である源加茂次郎義綱の子義明とその家人藤原季方の犯行とされた。


このため、義忠の跡を継いだ源為義は、義綱の一族を甲賀山に攻め、義綱の子らを自決させ、義綱を捕らえられて佐渡へ流した。


しかしその後になって、源新羅三郎義光の犯行であったことがわかった。


これにより河内源氏は義忠、義綱という二人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸国に逃亡した。


京には為義一人だけが残されることになり、河内源氏の衰退に拍車がかかった。


更に悪いことに、為義は白河法皇と主従関係を結んだが、父義親と同じように、行状が芳しくなかった。


そのため、武官貴族としての出世ができず、検非違使の職すら辞さなければならないようになった。


このため、摂関家の藤原忠実、頼長父子に再び近づくことで勢力の回復を図り、検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により再び解官となった。

 



一方の伊勢平氏は、正盛の跡を継いだ忠盛は、為義と違って白河法皇の期待に応える働きをしていた。


そのため、白河法皇は、強引に忠盛を出世させている。


白河法皇の後を継いだ鳥羽上皇も忠盛を重用し、武官で唯一の殿上人とした。

 



1102
(康和4)年、関白の忠実は、大衆に対する取締の不徹底を理由に、白河法皇が忠実の叔父である興福寺別当の覚信を解任しようとした際、これを取り成そうとして却って法皇の怒りを買ってしまい、81日に法皇から政務関与への拒絶を通告された。


ここに摂関政治は完全に停止状態となってしまったのである。

 



代わって院政を布く法皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣、院庁下文などの命令文書を発給した


しかし元々の院庁は、通常の皇族や貴族が持つ単なる家政機関に過ぎなかった。


それが、白河法皇が鳥羽天皇の後見人として権勢を持つようになると、院庁は政治意思を表明、具現化するための重要な政務機関へと変貌した。


院政を行う法皇は「治天の君」と呼ばれ、その政治意思は、院庁が発給する院庁下文院庁牒、院宣などによって実現されていった。


院庁には院司が所属した。


院司は、別当、判官代、主典代とあり、実務能力が高く、受領の実績を積んだ中流貴族が任命された。


これは、摂関家を中心とした高級貴族の権限を縮小させるために取られた人事である。


また北面の武士も設置された。


北面の武士とは、院御所の北面の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士たち
のことである。


当初は、上皇と個人的に関係の深い者で構成されていたが、上皇の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。


新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍、棟梁階級であった。


その結果、従来、院の警護を担当していた武者所は、北面の武士に機能を吸収されてしまった。


また白河法皇は北面の武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。


平正盛、忠盛父子は北面の武士の筆頭となり、それを足掛かりに院庁での地位を上昇させていった。


しかしながら、院庁はあくまで家政機関であり、院庁下文、院庁牒、院宣なども私文書であったため、公の効力は有していない。


だから、これらの発給文書で圧力をかけながら、院独自の側近を太政官内に送り込むことによって事実上の政治を執ったのである。

 



このころ白河法皇により、忠実の長男忠通と公実の娘であり、法皇の養女であった璋子の婚姻の話がもちあがった。


しかし、璋子と白河法皇との間に噂があったことや、公実が関白職を欲したことがあったという経緯から、忠実が嫌がって破談になっていた。

また忠実は、娘の勲子を鳥羽天皇に入内させるよう白河法皇に勧められたが、これも固辞した。


1117
(永久5)年、そこで法皇は、璋子を鳥羽天皇に入内させる。


平忠盛は、藤原璋子(待賢門院)の政所別当に任ぜられる。


他の別当には藤原長実や藤原顕隆など、白河法皇の有力な近臣が名を連ねていた。

 



1120
(保安元)年、璋子入内に衝撃を受けた忠実は、鳥羽天皇の希望もあって、勲子を入内させようと工作を始めた。


しかし、白河法皇の勧めを断りながら鳥羽天皇の希望を受けて再度入内させようとしたことに法皇は激怒し、ただちに忠実の内覧は停止された。


これにより、摂関家の権威の低下を内外に見せしめることになった

 



1121(保安2)年、忠実の子忠通は、法皇の勅勘を蒙り関白を辞任した父に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任した。


1125
(天治2)年、子が生まれていなかった忠通は、23歳年下の実弟頼長を養子に迎えている。

 



この頃になると、公家社会全体が、公家における家格の形成が進み、家格秩序を崩しかねない皇族の臣籍降下による新規の公家の創設に消極的になった。


また白河法皇は、実弟の実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河、鳥羽、崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した。


皇位継承の安定化のために、庶流の皇子は幼少の頃に出家させ法親王としての待遇を与えて子孫を遺させない方針を採るようになったのである。

 



ただ、これほど権勢を誇った白河法皇でも、三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすものがあった。


やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになる。


それは、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」とうたわれたうた。


「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川(鴨川)がもたらす水害のことである。


「双六の賽」とは、文字通り双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである。


「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧兵のことである。




sunwu at 05:34│Comments(0)TrackBack(0)院政時代 

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
記事検索
メッセージ

名前
メール
本文
最新コメント
Amazonライブリンク