2012年12月01日

第23回 白河天皇(後三年の役)

023-1

即位した貞仁親王が、後に院政を始めることになる白河天皇である。


後三条天皇とその生母である陽明門院は、白河天皇の異母弟に当たる実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる、即ち兄弟相続の意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。


白河天皇はこれに反発したが、父、祖母が決めたことであるから、抗えなかった。



「どうして我が子が皇統を継げぬのだ。」



白河天皇は、藤原師実に愚痴を漏らした。



「後三条天皇の御遺言でございますれば、仕方が無いことと存じます。」


「別に実仁や輔仁に恨みは無いが、やはり我が子に皇統を継がせたいものじゃ。」


「ご心中、お察し申し上げます。」



関白と言えども、皇統については口出しできないのが、不文律であった。


師実は養女の賢子(源顕房の娘)を白河天皇に入内させると、賢子は天皇の寵愛を受け、さらに善仁親王を産んだ。


師実は、白河天皇と賢子の間に生まれた善仁親王への皇位継承を望み、協調することで、摂関、藤氏長者、さらに太政大臣である信長を差し置いての一上獲得に成功した。






023-31074
(延久6)年2月に、藤原頼通が83歳で死去した。


教通は子の信長に関白を継がせたかったが、上東門院彰子が
87歳にしてなお健在であり、道長の遺言の生き証人としてにらみをきかせていたためである。


しかし、彼女も同年
10月に死去し、教通から信長への関白職継承を妨げるものはなくなったかに見えた。


しかし、翌
1075(承保2)年9月に教通も80歳で死去してしまう。


信長は、教通の死去を公表せず時間稼ぎを図ったが、教通の死の翌日には白河天皇の知るところとなり、あっさりと師実に内覧の宣旨が下された。


信長が内大臣であったのに対して師実は左大臣であったことから、当然のことであった。


10
月には、信長は公式に天皇に教通の死を報告し、教通が管理していた氏長者の印鑑などを師実に引き渡さざるを得なくなり、これを受けて師実は正式に関白となった。


同年
12月、信長は右近衛大将に任じられて、そのお礼言上の参内などは行っているが、やがて太政官に出仕しなくなった。


1081
(永保11014日に、源八幡太郎義家は、白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、園城寺の僧兵の襲撃を防ぐために、弟である源賀茂次郎義綱と二人で、それぞれの郎党を率いて護衛した。


しかし、このとき義家には官職が無かったため、関白藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。


12
4日の白河天皇の春日社行幸に際しては、義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護した。


この頃から、皇族や貴族たちの間で、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われるようになる


後の「北面武士」の下地にもなった出来事である。

 



023-4そして、
1083(永保3)年に源義家は陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。


前九年の役が終わった後、清原武貞は安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清の妻を自らの妻としていた。


この女性は前九年の役で戦死した安倍氏の当主であった頼時の娘であり、経清との間に生まれた子がいた。


023-5この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡と名乗っていた。


さらにその後、武貞との間には、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引き継いだ家衡が生まれた。


武貞の死後、清原氏の惣領の地位を継いだのは長子の真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので、真衡は平安忠の子を養子に迎えた。


これが成衡である。


これで清原氏は桓武平氏と縁戚関係が出来たことになる。


更に真衡は清和源氏との縁戚関係の構築を目論み、
1083(永保3)年に常陸国から源頼義の娘とされる女性を迎え、成衡の嫁とした。


このことにより、清原本家の家格を上げ、清原一族の惣領として一族支配の強化を目論んだと思われる。


秋、源頼義の嫡男で成衡の妻の兄である源義家が陸奥守を拝命し、陸奥国に入ってきた。


真衡は義家を三日間に渡って国府で歓待した。


しかしその真衡が急死してしまった。


義家は真衡の所領であった奥六郡を反対派の多い真衡の養子である清原成衡に継がせず、三郡ずつを清衡と家衡に分与する裁定を下した。


ところが家衡はこの裁定を不服とし、
1086(応徳3)年に清衡の館を襲撃した。


清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗した。


1087
(寛治元)年、義家、清衡軍は金沢柵に拠った家衡、武衡軍を攻めたが、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかった。


そこで兵糧攻めに戦術を転換し、これによって糧食の尽きた家衡、武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した。


武衡は近くの蛭藻沼に潜んでいるところを捕らえられ、斬首された。

家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。


戦いが終わったのは
12月であった。


朝廷は、この戦を義家の私戦とみなし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。


更に義家は陸奥守を解任されるに至った。


義家が陸奥守に就任中、決められた黄金などの貢納を行わずに戦費に廻していた事や、官物から兵糧を支給した事から、その間の官物が未納であると咎められ、義家は受領功過定を通過出来なかった。


そのため義家は、新たな官職に就くことも出来なくなった。


ちなみに
10年後の1098(承徳2)年に、白河法皇の意向で受領功過定が下りるまで、その未納分は義家に請求され続けたのである。


結果として義家は、主に坂東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なくなった。


が、このことが却って坂東における源氏の名声を高め、後の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。


戦役後、清衡は清原氏の旧領のすべてを手に入れることとなった。


清衡は、実父である藤原経清の姓である藤原に復し(奥州藤原氏)、清原氏の歴史は幕を閉じた。

 



後三年の役が終わる前の
1085(応徳2)年に実仁親王は薨去した。



「陛下、これは好機ですぞ。」


「師実、どういうことだ。」


「皇太弟実仁親王殿下が亡くなられた今、皇太子は空位です。この間に善仁親王を皇太子に立て、即日譲位されれば宜しいのです。そうすれば、どうしようもなくなります。」


「そうか。」



こうして翌
1086(応徳3)年11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王を皇太子に立て、即日譲位した。


023-2これが堀河天皇である。


堀河天皇即位に成功したことにより、白河天皇は師実には一目置き、師実の意向には配慮するように努めている。


実際、白河上皇は自身の院庁人事さえも師実の人選に任せている。


堀河天皇即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となる。


白河上皇は、また熱心に仏教を信じ、
1096(嘉保3)年には寵愛する皇女媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。


また、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用した。


堀河天皇が成人して、関白も藤原師実の子師通に代わると、両者が協力して政務を行った。


だが、
1099(承徳3)年に師通が死去すると、若年で政治経験の乏しい藤原忠実の継承に伴って摂関家の政治力が低下し、国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく、父親の白河法皇に相談相手を求めざるを得なくなった。




sunwu at 19:34│Comments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

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