2012年11月30日

第22回 後三条天皇(後三条天皇の親政)

022-1

「長かった。」


「はい。亡き養父も草葉の陰で喜んでございましょう。」


「能信には、本当に世話になった。能長よ、そなたの養父の遺徳は、決して忘れはせぬぞ。」


「そのように申して頂いて光栄です。」



後三条天皇は、頼通引退後、上東門院彰子の推挙で弟の教通を関白にした。


しかし、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏の源師房や源経長等を登用することにより摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の下級役人などを登用して、積極的に親政を行った。








後冷泉天皇の後は、皇太子の尊仁親王が即位して後三条天皇となった。


後三条天皇は、母が藤原氏出身でなかったため、教通の時代に藤原摂関家が衰退したとされている。


しかし教通が、兄頼通との約束に反して息子信長への関白職の譲位を図った事から、兄弟の不仲が深刻となった。


ここに頼通の影響力を抑制したい後三条天皇は、関白教通と思惑が合致することとなり、両者は急速に接近する。


後三条天皇は自己の主張を貫きつつも、教通との関係を重視したのである。


そのため、頼通の財政的な基盤を切り崩すために、後三条天皇が行った延久の荘園整理令の施行を、教通は事実上容認したとも言われている。

 



また、後三条天皇は、源隆国のように、皇太子時代の天皇に対して、頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の子息の俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。


このことにより、後三条天皇の人気は更に大きくなる。

 


「私は、桓武天皇の治世を目指したいと思う。教通はどう思うか。」


「陛下の御心のままに。」


「まずは、全国にある荘園を整理せねばならん。」


「ならば、帝が荘園整理令を発布されて、記録所を設置されれば良いでしょう。」


「わかった。」


「他に大内裏の再建と、蝦夷地の征伐をやりたい。」


「宜しいかと、存じます。」

 


1069
(延久元)年には画期的な延久の荘園整理令を発布した。


これは、藤原頼通の関白在任時に口頭で摂関家領と称する違法荘園が諸国に出現し、そのために国務が滞っているとの報告を後三条天皇が受けたことがきっかけとなり、違法荘園の整理を決められた。


そこで延久の荘園整理令では、従来の荘園整理令よりも強固に実行するために、それまで地方諸国の国司達に依存していた職務を全て中央で行うようにした。


その審査を行う機関として、
1069(延久元)年に記録荘園券契所が設置された。


延喜の荘園整理令以来の方針として、成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外とする事とし、更に従来の命令とは違って細かい規制が加えられた。

 


1.
劣悪な荘田と肥沃な公田を無断で交換してはならない。


2.
荘園の住民が荘園外で耕している公田を荘園に含めてはならない。


3.
国司が経費の財源として寺社等に宛がっている公田を勝手に荘園(無定坪付庄)として扱ってはならない。

 


また、審査の対象となる荘園を摂関家領や大寺社領にまで拡大した所に特徴がある。


その一方で、審査対象の荘園の存続条件として、寛徳の荘園整理令が発布された寛徳
2年以前に成立した事を示す書類を有しているとすることで、頼通の整理令を受け継ぐ姿勢を前面に押したて、摂関家の不満をそらす等の配慮を見せている。


また、天皇の勅許を受けて発給された太政官符・太政官牒が荘園の公験とみなされ、その存在が荘園整理の判断材料とされた。


当然、摂関家も対象となり、実際に頼通も荘園の文書を提出しており、その審査の過程で上野国土井荘などの規定外の荘園が没収されている。

このことから摂関家の経済基盤がこの荘園整理令で大打撃を受けたことがうかがえる。


その一方で、頼通の荘園の中核であった平等院領が、後三条天皇の即位直前に駆け込みで得た太政官符・太政官牒が有効な公験とされて整理の対象外となったことで、実際の摂関家の経済基盤への打撃はそれほど大きなものとならず、むしろ天皇の勅許のもとに太政官符・太政官牒の発給を得て四至が確定された荘園は公認されるという原則が確立されたことで、むしろその後の荘園制の発展につながった。


一方で、石清水八幡宮や興福寺等の大寺社も書類を提出しており、石清水八幡宮は審査の結果、
34箇所の内13箇所が収公されるなど、大寺社勢力にも多大な影響を与えていた。


また他方で後三条天皇は、収公された審査基準外の違法荘園を国衙領に戻すだけでなく、勅旨田の名目で天皇の支配下に置くなど、事実上の天皇領荘園を構築しており、それらは後三条院勅旨田と呼ばれた。


この様に後三条天皇が発布した延久の荘園整理令は、摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げており、後の荘園整理令に大きな影響を与えた。

 



1070(延久2)年には絹布の制1072(延久4)年には延久宣旨枡估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。


特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。


この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらした事で、『古事談』はこれを延久の善政と称えている。


一方、摂関家側は頼通と教通兄弟が対立関係にあったために、天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった。


1070
(延久2)年、後三条天皇の勅命により源頼俊が蝦夷征伐に赴き、清原貞衡の助勢によって蝦夷らの支配する津軽、下北半島のあたりまで征伐を行った。


しかし、後三条天皇は、
1072(延久4)年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して、翌年には病が篤くなり40歳で崩御した。



sunwu at 17:45│Comments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

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