2012年11月29日
第21回 源 頼義(前九年の役)
ある時、源頼義が鎮守府から国府に戻る為に阿久利川の河畔に野営していると、密使が急を告げた。
「ご注進。」
「如何した。」
「藤原光貞殿と元貞殿が野営していたところ、夜討ちに遭い、多くの人馬が殺害されたとのことです。」
「何、直ぐに光貞を呼べ。」
「はっ。」
暫くして光貞がやってきた。
「光貞、夜討ちに心当たりは無いのか。」
「心当たりと言えば、以前に安倍貞任が私の妹と結婚したいと申し出て来ましたが、私は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断りました。心当たりと言えば、これ以外はありません。」
「よし、わかった。」
そこで怒った源頼義が安倍貞任を呼び出したところ、父安倍頼時は貞任の出頭を拒否した。
このため、再び安倍氏は、頼義の挑発に乗る形で、朝廷との戦いに突入した。
陸奥国の土着の有力豪族であった安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵と呼ばれる城砦を築き、半独立的な勢力を形成していた。
11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為、1051(永承6)年、陸奥守であった藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、両者の間に戦闘が勃発した。
この戦闘は、舞台となった玉造郡鬼切部の地名から「鬼切部の戦い」と呼ばれている。
この戦闘では秋田城介の平繁成も国司軍に加勢したが、結果は安倍氏の圧勝であり、敗れた登任は更迭され京へ帰った。
そこで朝廷は河内源氏の源頼義を陸奥守とし、事態の収拾を図ろうとした。
ところが頼義が陸奥に赴任した翌1052(永承7)年、後冷泉天皇の祖母である上東門院彰子の病気快癒祈願の為の大赦が発せられ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。
安倍頼良は陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。
また1053(天喜元)年には頼義は鎮守府将軍となった。
ところが、頼義の陸奥守としての任期が終わる1056(天喜4)年2月、阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生する。
このとき衣川の南にいた平永衡と藤原経清は頼義に従い配下の将となっていたが、二人とも頼時の女婿であり、いつ裏切るかも知れないと疑われる微妙な立場にあった。
この時点で永衡が陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言をうけ、これを信じた頼義は永衡を粛清した。
同じ女婿という立場で頼義に従っていた経清は累が自分に及ぶと考え、偽情報を発して頼義軍が多賀城に急行している間に安倍軍に帰属した。
11月、頼義は再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃し、貞任に決戦を挑んだ。
冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた頼義軍は大敗を喫し、頼義は長男の義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱する、という有様であった。
頼義が自軍の勢力の回復を待つ間、1059(康平2)年ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく経清の白札で税金を徴するほどであり、その勢いは衰えなかった。
1062(康平5)年春、任期の切れた頼義の後任の陸奥守として高階経重が着任したが、郡司らは頼義に従い、経重には従わなかったため、経重は帰洛して解任され、再び頼義が陸奥守に任ぜられた。
苦戦を強いられていた頼義は、中立を保っていた出羽国仙北の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼を味方に引き入れることに成功する。
そして光頼は7月入ると、弟武則を総大将として軍勢を派遣した。
朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義率いる軍は3千人ほどであった。
清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。
緒戦の小松柵の戦いから頼義軍の優勢は続き、同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵、嫗戸柵が陥落。
貞任は深手を負って捕らえられ、巨体を楯に乗せられて頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。
経清は、頼義の恨みを一身に受け、苦痛を長引かせるために、錆び刀で鋸引きで斬首された。
こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。
12月17日頼義は騒乱鎮定を上奏。
しかし1063(康平6)年2月7日の叙目では頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となった。
貞任の弟宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流された。
武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任されて奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。
経清の妻であった頼時の息女は敵方であった武貞の妻となり、経清の遺児と共々清原氏に引き取られたが、このことが、後の後三年の役の伏線となる。
頼義と平直方の娘の間に生まれたのが、清和源氏の地位を築いた源八幡太郎義家である。
義家も、前九年の役を経験し、その功として1063(康平6)年2月25日に従五位下出羽守に叙任されている。