2012年11月28日

第20回 藤原頼通(摂関政治の暗転)

020-1

「姉上、藤原氏の家督を、子の師実に譲りたいのですが・・・・。」



頼通は、姉である上東門院彰子に相談する。



「それはなりませぬ。亡き父上のお考えは、五弟の教通に譲ることであったはずです。」


「それは、心得ております。しかし、私も人の親。子に継がせとうございます。」


「ならば、亡き父上のお気持ちもわかるでしょう。」


「はぁ。」



力なく頼通は頷く。



「教通に関白職を譲りなさい。そのときに、次代の関白は師実にと約束させれば良いのです。」


「わかりました。姉上の仰せに従います。」



こうして頼通は、関白職を同母弟の教通に譲った。






1036
(長元9)年後一条天皇が崩御し、同母弟の敦良親王が即位した。


これが後朱雀天皇である。


しかし後朱雀天皇も、
1045(寛徳2)年に病により危篤に陥り、次代の皇太子には次男の尊仁親王を望んだ。

 



ところが関白頼通は、後朱雀天皇に尊仁親王立太子を見送るよう進言した。



「陛下、皇太子はまだお若く、皇子に恵まれる可能性が高いと思われます。もし、事を急いで御弟尊仁親王を皇太子にされますと、世継争いが生じる恐れがあります。何卒、その辺りをご勘案下さい。」



これを聞いた頼通の弟である大納言能信は、懇願した。



「もし今、尊仁親王を次代の皇太子に任じて頂かねば、万が一皇太子に皇子がお生まれにならなかったときは、陛下の皇統が絶えてしまいます。愚兄が英邁な尊仁親王を帝に推すとは思えません。ここは、陛下のご遺志で、尊仁親王に光明を与えて下さいませ。」

 


こうして遂に、後朱雀天皇は意を決し、尊仁親王を東宮に冊立するとの遺命を残して崩御した。


皇太子であった親仁親王が即位し、後冷泉天皇となる。


後朱雀天皇の遺言により、異母弟の尊仁親王が皇太弟に立てられた。

 




藤原道長には、二人の妻がいた。


源雅信の娘と源高明の娘である。


共に父は左大臣まで上っていたが、源高明は安和の変で左遷されていたため、雅信の娘産んだ頼通、教通が嫡子とされ、高明の娘が生んだ顕信、能信が庶子とされた。


能信は、最も父道長に似て勝気な性格だったらしく、事あるごとに異母兄頼通に反対していた。


後朱雀天皇崩御のときも、頼通に対抗する気概で、尊仁親王を強く推したのである。


そのため、頼通は尊仁親王には協力せず、
1050(永承5)年に一人娘の寛子を後冷泉天皇に入内させ皇后となし、皇子誕生に望みを繋いだのである。


このため、尊仁親王や能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。


やむを得ず能信の妻の兄である藤原公成の娘である茂子をを養女として立太子に際し添臥として入内させた。


「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで辛うじて皇太子妃不在という事態を回避したほどであった。

 



020-2地方の世情が不安になる中、道長を受け継ぎ長年関白を務めた頼通の権勢は表面的には衰えず、御所の傍に巨大な高陽院を造営し、
1052(永承7)年には道長の別荘であった宇治殿を、現代に残る壮麗な平等院鳳凰堂に改修した。


この頃荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。


それら荘園の主たる領主が頼通ら権門であった。


頼通は
1040(長久元)年、1045(寛徳2)年、1055(天喜3)年に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる。


1061
(康平4)年、70歳になった頼通は太政大臣宣下を、受け位人臣を極めた。


翌年には父の例に倣い太政大臣を
1年足らずで辞している。

1067(治暦3)年(1067年)には関白を辞して、准三宮を宣下された。

後任の関白には同母弟の教通が任じられた。

 

実は、頼通は実子の師実に摂関を伝えることを強く望んだが、頼通の次の摂関の職は教通に伝えるべきとの道長の遺言を理由に、上東門院彰子に拒絶され、やむを得ず教通に譲った


この際、次の摂関は師実に伝えるよう関白となった弟の教通に約束させたが、教通は一向に実行しようとしなかったため、「自分は師実が職(摂関)にあることを目にしなければ、冥することができない」と言ったところ、教通は「私の勝手で、できることではない」と答え、頼通はひどく恨んだという。


同年
10月、頼通は後冷泉天皇が平等院に対して封戸300戸を施入したのを機に、平等院の荘園に不輸の権を認めて欲しいと願い出て、その要望を認めてそれらの土地に不輸の権を与える太政官符を得て、官使の検分のもと四至牓示を行われ、立券荘号が行われた


しかし実際には、封戸
300戸のみではなく平等院の荘園9か所全てに適用され、その多くは、頼通が長年かけて寄進してきた土地であり、実質において平等院の主である頼通の荘園の中でも、最も重要な一群でとなっていた。


1068(治暦4)年3月、後冷泉天皇が病に倒れ、もはや天皇の崩御と、皇太子尊仁親王の即位が避けられないことが明らかになると、頼通は同月23日に致仕の上表を行い、28日には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。


前者は
416日に勅許され、後者は329日に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた


そして、
419日に後冷泉天皇が崩御すると、頼通は宇治に閉居した。

 



020-3公地公民制は
10世紀には解体が進み、11世紀後半には田地をはじめとする全ての土地が私領となった。


私領になった土地は処分の自由が認められる一方で、公地公民制の解体で不可能となった人身的賦課(庸調)の代替となる租税の賦課対象とされた。


そのため、私領に対する賦課を強化する国司(受領)側と、私領の所有者として新たな負担を課されることになった有力農民(土豪層)との間で対立が生じた。


このため、有力農民は伝手を求めて有力貴族や寺社に接近した。


そして、自己の私領を彼らに寄進し、私領の保護と引換にこれまで国司に納めていた官物、雑役を年貢、公事の名目で被寄進者に納めることで国司の圧迫を逃れようとした


これらは結果的には国家による租税収取権限の割譲をもたらし、更には領域的な広がりを持って寄作者以外の領域内の住民に対する支配にも及び、最終的には不入の権を口実とした行政権限の一部割譲にまで至った。


これが寄進地系荘園の始まりである。


古くはこうした荘園は摂関政治期から存在すると考えられていたが、近年では院政期以後の荘園に対して、この概念が用いられるようになっている。


被寄進者となった貴族や寺社は
「領家」と称せられた。


ただし、寄進の有効性を判断するのは国司の役割とされていたため、領家の政治力と国司の政治力の力関係によっては租税の免除が認められない場合があった。


そこで領家は院宮や摂家などより上位の権門勢家に更に寄進を行うことで国司に対抗しようとした。


一方、権門勢家側も封戸、位田、職封などの律令制に基づく俸禄システムの解体によって荘園獲得にその収入を求めざるを得なくなり、荘園整理令における現状追認の姿勢も相まってこうした寄進を受け入れるようになっていった。


このような上位の被寄進者を
「本所」または「本家」と称した(本所は法的な所有権と荘務権が認められている者、本家はそれを満たさない者を指す)。


こうして荘園の構造は、有力農民から転じて下司、公文などの荘官の地位に就いた在地領主と、領家、本所からなる重層的なものになり、職の体系が確立されるようになった。


また、国司に承認された荘園でも、中央の荘園整理令の対象になるのを避けるために中央の官司(太政官・民部省)の承認を得ることが行われた(官省符荘)。



sunwu at 18:21│Comments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

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