2012年11月22日

第14回 平将門(承平天慶の乱)

014-1

平高望の子たちは、坂東の地で、それぞれの所領に分かれて領地開発を行った。


そして孫たちは、京との絆が切れるのを防ぐため、西行して有力貴族に仕官していた。


あわよくば、任官を受けて、中央政界での立身出世を狙っていた。


この頃、国香の子の貞盛は左馬允を拝命しており、良将の子の将門は摂関家の藤原忠平と主従関係を結んで滝口の武士をしていた


将門は、摂関家を足掛かりに任官を目指していたが、その前に父良将が亡くなり、後を継ぐために忠平に暇乞いをして坂東に下った。


しかし、いざ帰郷してみると、父良将の遺領の多くが伯父の国香や良兼に横領されてしまっていた上に、帰途を二人に待ち伏せられて襲撃されるという憂き目に遭った。


これは、良将が源護の娘を娶らなかったことと、兄たちを差し置いて鎮守府将軍に任ぜられたことが、多分に関係があると思われる。

 


「伯父上、いったいこれはどういうことですか!?」


「どうもこうも無いわ!!大人しく京で過ごしていたら良かったものを!!それ、将門の首を取れ!!」

 


国香、良兼兄弟の軍勢は、将門の軍勢を散々に打ち破ったが、将門を討ち取ることはできなかった。


こうして辛くも逃げ切った将門は、父の本拠地であった下総国豊田郡に逼塞し、勢力を挽回させようと企図した。








しかし、その間も伯父たちの横領は続き、将門は源護の子に攻撃を仕掛けられる。

 


「こうなっては、伯父上たちや源護を族滅させない限り、こっちが殺られる。」

 


事ここに至っては、遂に将門の怒りは爆発し、この攻撃を撃退し、源護の子を殺した上に、国香の館に火を放ち、国香を焼死させるのに成功する。


ところが、そんな経緯を知らない国香の長男である貞盛は、父が殺されたとの一報を聞き、仇討ちのために急遽坂東に下向した。


しかし事件の詳細を知り、非は将門ではなく父国香にあるということがわかり、貞盛は将門と和睦しようとした。

貞盛にとっては、父の仇討ちより、中央政界での出世の方が大事であったのである。

 


「貞盛、確かに我らが悪かったかもしれんが、将門はそなたの父上の敵ぞ。」


「しかし叔父上。」


「父の敵を取らずに京に戻れば、親不孝者と言われるのではないのか。」


「・・・・・・。」


「将門を倒す以外方法は無いであろう。儂が支える故、将門を討て!!」

 


叔父の良兼の巧みな話術により、貞盛は将門を討つことに決める。


そして良兼、貞盛連合軍は将門軍を攻撃するのだが、逆激に遭い大敗してしまう。


更に将門は、元主人の藤原忠平に良兼の暴状を訴え、
937(承平7)年12月、朝廷から良兼らの追捕の官符を引き出すことに成功した。

 


「儂が朝敵・・・・・。」

 


このことを知った良兼は、失意のうちに病没する。


938(承平8)年2月、良兼を失い味方がいなくなった貞盛は、自身で京に上って将門の暴状を朝廷に訴え、将門への召喚状を引き出すことに成功する。


6
月、貞盛は召喚状を手に再度坂東へ下ると、常陸介の藤原維幾に召喚状を渡し、将門を京へ上らせるよう頼んだ。


維幾は召喚状を将門に送ったが、将門は、当然のようにこれを無視した。


このため、為す術が無くなった貞盛は、陸奥国へ逃れようとしたが、逆に将門側の諸将に追いまわされ、以後、東国を流浪することを余儀なくされてしまう。

 



そんな時、武蔵国足立郡の郡司であった武蔵武芝から、将門に応援要請が来た。


内容は、武蔵権守(役職に権が付いていれば、定員外という意味となり、現代風に言えば補佐ということ)に任じられた興世王と武蔵介に任じられた経基王が、赴任早々に検注(検地)を実施しようとし、これに反対した自分を攻めているので助けてほしい、ということだった。


そもそも検注は、正式な守が赴任するときに行われるのが通例となっていた。


そこで将門は求めに応じて調停を行い、興世王と武蔵武芝は和睦するが、経基王は京に逃げ帰って、将門、興世王、武蔵武芝の3人が謀反を共謀していると朝廷に誣告する。


しかし将門らは、翌
939(天慶2)年52日付けで常陸、下総、下野、武蔵、上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を旧主である藤原忠平へ送ると、逆に誣告の罪で経基王は囚われの身となってしまう。


また丁度その頃、武蔵国では、新たに武蔵守として赴任してきた百済貞連と、権守であった興世王の仲が険悪となった。


そこで興世王は将門を頼り、将門の本拠地である下総に移った。


また、常陸国でも、広大な荘園を経営していた藤原玄明が、常陸介である藤原維幾からの納税命令を無視したことで、維幾に追捕令を出されてしまっていた。


玄明も、興世王と同じように将門を頼って下総に逃げた。


更に玄明は、その途中に国司が集めた祖を蓄えておく倉である不動倉を破って略奪して行った。


将門は、玄明を匿い、維幾からの引渡し要求を拒否した。


更に
939(天慶2)年1121日、将門は軍兵を集めて国府のある常陸府中へ赴き、藤原玄明の追捕を撤回するよう威嚇したのである。

 


「ここは都より遠く離れた坂東ぞ。維幾よ、都の威勢もここまでは届かぬぞ。玄明の追捕令を撤回しさえすれば、このまま引き上げてやる。」


「何を言うか、謀反人。おまえの話など聞けるか!!」


「わからぬヤツよのう。儂の後ろには、藤原忠平さまがついておられるのだぞ。」


「うるさい、わしは常陸介じゃ。貴様ら全員討ち取ってくれる!!」

 


こうして維幾は、将門の要求を拒絶するとともに、兵を繰出した。


そこで、脅すだけのつもりだった将門はやむなく戦うこととなり、手勢
1,000人余ながらも維幾率いる国府軍3,000人を撃破し、維幾をあっけなく降伏させてしまった。


結局この事件によって、将門は不本意ながらも、国府を攻めて国司を下したという事実から、朝廷に対して反旗を翻すかたちとなり、朝敵とされてしまった訳である。

 



その後の将門は、興世王の甘言に惑わされて、関東諸国の国府を攻め落とし、自らを「新王」と称して独自に除目を行い、朝廷に対して徹底抗戦の動きを見せた。


これに対して朝廷は、藤原式家の忠文を征東大将軍にし、「嘘から出たまこと」状態の源経基を釈放して副司令官に任命し、坂東に鎮定軍を派遣した。


しかし、彼らが坂東に到着する前に、藤原氏の庶流で、同じく地方領主と化していた藤原北家魚名流の秀郷の助力を得た平貞盛が、平将門と戦い、将門は流れ矢に当たって呆気なく戦死し、将門の乱は鎮定されてしまっていた。

 






014-2また
藤原純友は、藤原北家という藤原家の中でも名門の出身であった。

大伯父には、人臣として最初の関白となった藤原基経がいる。


ところが、純友の父は早くに亡くなり、純友自身には、中央政界で出世するだけの後ろ盾が無く、そこで伊予守であった父の従兄弟である藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する役職に就いた。


そして純友は、元名が任期を終えて京に戻ってもそれに従って帰京せず、地方領主として成功の道を選ぶことにした。


純友は、伊予の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばして海賊として成功する。

 


 「瀬戸内は我が領土ぞ。」

 


慢心した純友は瀬戸内に止まらず、淡路、備前、播磨、讃岐の国府を襲い、太宰府まで支配下に納めてしまった。


さすがにこの動きに対して朝廷は放置できず、小野好古を大将、経基王を副将として討伐軍を派遣した。


そして、
941(天慶4)年5月の博多湾の戦いで、純友の船団は討伐軍により壊滅させられ、純友自身は子息の重太丸と伊予へ逃れたが、同年6月に伊予国警固使の橘遠保により捕らえられて、獄中で没することになり、ここに藤原純友の乱は収束した。


ちなみに経基は、戦場に到着する前に、大将の小野好古が直接に藤原純友を破ったため、大した功績もないまま鎮守府将軍にまで昇って、清和源氏発展の基礎を築いた


これらを承平天慶の乱という。



sunwu at 10:45│Comments(0)TrackBack(0) 摂関政治時代 

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