2012年11月12日

第4回 天武天皇(壬申の乱)

004-1「朕は、新たに天下を平けて、初めて即位ものである。」


と天武天皇は宣言した。


天武天皇は壬申の乱によって混乱した倭国を再生し、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとしたのである。


というのも、白村江の戦い以後、天智天皇は豪族や民に重税を課し、大きな反発を招いていた。


つまり、天智天皇の人気は地に落ちていたのである。


天智天皇の後継者を称すると、その不人気も受け継ぐこととなるため、敢えて天武天皇は新たな王朝の創始者を名乗り、天智天皇を否定することにした。


この考えを具現化するため、壬申の乱後は近江京には行かず、飛鳥の地に戻ったのである。


また、壬申の乱で天武天皇を助けたのは、中央豪族ではなく、地方豪族を中心とした勢力であった。


これにより、天武天皇は中央豪族に気兼ねなく政治が行えるようになったのである。




004-2壬申の乱は、672(天武天皇元)年に起きた天智天皇の弟である大海人皇子と、子である大友皇子の間で、皇位継承を巡って起こった日本古代最大の内乱である。


壬申(
672)の年に起こった内乱ということで、壬申の乱と名付けられた。

 



天智天皇は、
663年に起きた白村江の戦いの敗戦以降、唐の武力に対抗するために、急速に改革を推し進めて行った。


しかし、
670年に唐と新羅が旧百済、高句麗領の占領について対立し始めたことにより、唐による日本侵略の危機は遠のいた。


天智天皇が崩御したのは、そのような状況のときである。

 



天智天皇が崩御する前に、大海人皇子は近江宮を離れて飛鳥に戻って出家していた。


これは、自分が天智天皇と袂を分かったことを、暗に豪族たちに理解させるためであった。


天智天皇の後を継いだ大友皇子の政治は、当然のことながら天智天皇の強硬な改革路線を継承すると考えられた。


そうなると天智天皇の死を契機として、豪族たちが反乱を起こすと予想するのは、簡単なことであった。



「皇子、今のうちに近江を離れられませ。」



大海人皇子の側にいた知恵者は、そう囁いた。



「皇子の所領のある美濃の豪族を糾合されませ。ここ大和の豪族を使えば、天智天皇のように彼らの顔色を伺わなければなりません。」


「わかった。」



こうして大海人皇子は、美濃で兵を集めて、天智天皇の崩御を待った。

 



天智天皇が崩御すると大海人皇子は、伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。


そして、既に大海人皇子の指示を受けた地方豪族の多品治が兵を興しており、不破の道を封鎖した。


これにより大海人皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。


美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。


この兵を迎え撃つべく大友皇子も、軍を編成して美濃に送り出した。

その軍には、左大臣蘇我赤兄(倉山田石川麻呂の弟)、右大臣中臣金(鎌足の従兄弟)らも参加していた。


しかし、指導部の足並みが揃わなかったことから前進が滞ってしまう。


このため、大友皇子軍は烏合の衆と化してしまい、大海人皇子軍に連戦連勝の機会を与えてしまった。


そして瀬田橋の戦いで大友皇子軍が大敗すると、大友皇子自身が自決し、蘇我赤兄は流刑に処され、中臣金は処刑され、乱は収束した。


673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した

 



「后よ。」


「はい。」


「そなたの父であり、兄の天智天皇が、何故中途半端な改革しかできなかったか、わかるか!?」


「いえ。」


「それは、蘇我宗家を滅ぼしても、蘇我一族が高位高官にあったのを知っているであろう。結局、豪族たちの反対を抑えきれなかったんだ。」


「はい。」


「此度の戦いで、蘇我一族の大半は大友皇子側についてくれたので滅ぼしてやった。大和の他の豪族たちも、多くは大友皇子方であったから、今頃戦々恐々としていよう。」


「そうですね。」


「この状況を利用して、我ら天皇家中心の政治基盤を作るのだ。権門の豪族であろうと口を挟めないようにしてやる。」

 



こうして天武天皇は、身分の貴賎、即ち天皇家からの距離を重く見た政治を執り始めた。


このため、旧来の勢力を一掃し、一人の大臣も置かずに直接に政務を執り、皇族の諸王に要職を分掌させた。


これを
皇親政治という。


その内容は、天武天皇の専制君主と言って良く、皇族と雖も天武天皇に対して簡単には意見できなかった。

 



まず天武天皇は、近江宮に入ることなく、飛鳥岡本宮に都を構えた。


この飛鳥岡本宮が、後に飛鳥浄御原宮と言われるようになる。


これは、天智天皇とは全く違うということを豪族たちに印象づけるためだったと考えられる。


 


冠位制度は、当初は天智天皇が定めた冠位
26階制を踏襲したが、685(天武天皇14)年121日に新しい冠位48階制を定めた。

 



また臣下の貴賎を明確にするため、
八色の姓を制度化した。


真人、朝臣、宿禰、忌寸が上位四姓であった。


旧来の臣、連、伴造、国造という身分秩序に対して、臣、連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人、朝臣、宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。


上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族も明確に区別した。


ただし、全ての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。


そのために古くからあった姓である、臣、連、伴造、国造などもそのまま残っていた。


従来からあった、臣、連の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。


また、後の冠位制度上の錦冠の官僚を出すことのできるのは真人、朝臣、宿禰、忌寸の姓を持つ氏に限られていたようである。

 



また天武天皇は、天皇家の威信を高めるために、敢えて朝貢の形式をとる遣唐使を派遣しなかった。


代わりに、日本に朝貢する形をとっていた遣新羅使を使った


唐と新羅は、旧百済領の領有権で緊張が高まっており、新羅は日本に背後を脅かされないように、日本に朝貢する形の外交をとっていた。


耽羅
(済州島)も、唐を恐れて、新羅と倭に朝貢するようになった。


そのため日本は、対唐戦略を新羅と共に行っていたと考えられる。


また、この時代は、朝鮮の北に渤海という女真族の国ができた。


渤海も、新羅と同じように対唐戦略の関係で、日本に朝貢する形の外交をとった。


こうして日本を中心とした冊封制度が、できあがったのである。

 



更に、天武天皇は、性格的に反対派を許容する人格を持ち合わせていなかった。


また、改革に反対する旧勢力に対して、徹底的な弾圧を加えたのかもしれない。


皇族臣下の高位者に流罪以下の処分を多く下したり、威嚇的な詔も複数回だされたりした。


677
(天武天皇6)年6月には、東漢氏にいたっては、数十年前に加わった政治謀議の過去を遡って責め、大恩を下して赦すが、今後は赦さないと詔した。

 



このように天武天皇は、強権的に改革を推し進め、中央集権国家の大部分を完成させたのである。



sunwu at 09:03│Comments(0)TrackBack(0) 天皇親政時代 

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