2012年11月11日

第3回 天智天皇(白村江の戦い)

003-2

「お前は私をたばかったのか!!」



激しい怒りが、百済王余豊璋の頭を突き抜けた。



「私が陛下を倭よりお迎えしたのですぞ。そのようなことをする訳が無いではないですか。」



余豊璋の片腕として仕えていた鬼室福信が言い返す。



「世を傀儡にするために呼び寄せただけであろう。全ては調査済みだ。」



と言うなり、余豊璋は福信を捕えさせた。



「これは罠だ。このようなことをして得をするのは、唐と新羅ですぞ!!」



もはや福信の叫びは余豊璋に届かなかった。


そして、余豊璋は福信の掌を穿って革紐で縛った。


それから見せしめとして諸臣の目の前に福信を引きづり出し、斬るべきかどうかと問うた。


そこで徳執得は言った。



「これは悪逆人であるから放しおくわけにはいかない。」



この言葉を聞き、福信はカッとなって執得に唾して罵った。



「おまえか!!王にあらぬことを吹き込んだ間諜は!!」



余豊璋は福信の言葉を聞き捨て、福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。


これが
6636月のことである。








「百済滅亡!!」



660
年、その一報は、危険を伴って齎された。


中大兄皇子と中臣鎌足が、危惧していたことが現実となってしまったのである。


倭の朝廷は、にわかに慌ただしくなった。



「どうして唐と新羅が連合して百済を討つことを事前に察知できなかったんだ。」


「此度の遣唐使の随員は、皆、百済が滅亡するまで長安で軟禁されておりました。唐は、我らの介入を阻止したかったのでしょう。」


「百済の次は、高句麗か、それとも我が倭国か??」



中大兄皇子が慌てるのも無理は無かった。


倭の中央集権国家化は未だ途上であり、政権の基盤も脆弱であったため、まだ唐に対抗するだけの力を持っていなかったからである。


この時代の国力とは、土地の広狭ではなく、人口の多寡であった。


そのため倭は、国力を増強すべく、蝦夷討伐を行っていた。


蝦夷討伐は、当然のことながら、蝦夷の民を支配下に置くためである。


阿倍比羅夫は、北海道から樺太までを平らげ、支配地域の拡大を模索しているところだった。

 





滅亡後の百済の地は、唐が都督府を設置して直接支配することになった。


しかしながら、唐の軍隊が帰国すると、百済の遺臣が蜂起し、旧百済国内は混乱状態となった。


百済遺臣の鬼室福信は、倭に同盟のための人質として滞在していた公子の余豊璋を百済復興の旗印として擁するため、豊璋の帰国と倭の軍事支援を求めてきた。

 


「どうする鎌足。」


「考えるまでもありません。百済を援助しましょう。」


「そうだな。」


「この戦は負けられません。そのためには必勝の方法で臨むしかございません。」


「必勝の方法とは??」


「天皇陛下には九州まで行幸して頂き、皇子自身には渡海して直接軍の指揮を行って頂くことです。」



これを聞いて考え込む中大兄皇子。



「私が渡海して直接指揮するのに異存はない。しかし、陛下を九州にお移しするのは・・・・。」


「難しいですか」


「ご高齢だからな。」


「そこを敢えて何とかできませぬか?古来より、君主が後方で安穏としていて戦に勝った験がありません。」



必死に鎌足は訴願した。



「わかった。陛下にお願いしよう。」


「ありがとうございます。」

 


003-1こうして
661年、斉明天皇は朝鮮出兵のために九州へ行幸する。


ところが、高齢での無理な旅が祟ってか、邦の津にて急死してしまう。


斉明天皇崩御にあっても、中大兄皇子は即位せずに称制した。


称制とは君主が死亡した後、皇太子や先の君主の后が、即位せずに政務を執ることを言う。


中大兄皇子にとっては百済復興が急務であり、復興の成功と共に即位しようと考えたと思われる。

 


「よし、全軍渡海するぞ。」


「お待ちください兄上。」


「どうした大海人皇子。」


「母上が崩御されて帝が空位になっております。兄上は皇太子です。兄上に万が一のことがあれば、誰がこの倭を導くのですか??」


「しかし、私が直接指揮して士気を鼓舞せねば・・・・。」


「百済の為に兄上が危険な目に遭うのは反対です。ここはご自重なさいませ。」

 


大海人皇子の言にも一理あったことから、中大兄皇子自身は九州の地に止まり、兵を三班に分けて、朝鮮に渡海させた。


 




中国大陸では、
316年の晋帝国の滅亡後、五胡十六国時代を経て南北朝時代となり、581年に隋帝国により再統一された。


しかし隋帝国は、度重なる外征により国力を疲弊させたために、
618年に唐帝国によって滅ぼされた。


唐帝国は、隋の轍を踏まないために、建国当初は外征より内政を心がけた。


これは、太宗李世民の「貞観の治」として結実する。


「貞観の治」の後半になると、内政に余力が出てきた太宗は、外征を行おうとする。


それが
644年、唐帝国の高句麗出兵であるが、これは失敗する。


実はこれに先立つ
642年、高句麗では、対唐強硬派である淵蓋蘇文がクーデターを起こし、融和派である栄留王を殺し宝蔵王を擁立していたのである。


また新羅では、
643年に善徳女王が高句麗の脅威を避けるため、唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めた。


このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の
曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。


乱を治めた後の武烈王と金庾信とは、真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。


これに対して百済は高句麗と反唐連合を結び、対立して行った。


つまり
640年代の朝鮮半島の諸国は、唐帝国の外圧に対して、反唐路線を歩むか、親唐路線を歩むかで、大混乱していた時期と言える。


 


そして、百済滅亡に先立つ
651(白雉2)年に新羅の使者が倭にやってきた。


その使者は、新羅が唐に臣従して制度も唐制に改めたと申し出たので、中大兄皇子ら政権首脳は新羅の使者を追い返した。



「新羅が唐に臣従したということは、唐と新羅が連合して百済を攻め滅ぼされる可能性が高いですぞ。」



左大臣であった巨勢徳多は、危惧を口にした。



「そうだな。」


「では、直ぐに新羅に出兵をして、唐との関係を断たせるべきかと。」


「それは無理だ。」


「どうしてですか??」


「我が国は、国体の変革半ばというところだ。このようなときに、民や豪族たちに犠牲を強いる外征を行える訳がないではないか。今は国力の充実が、まずは肝要である。」


「しかし、それでは・・・・。」



新羅と唐が結ぶことを危惧した巨勢徳多は、新羅を攻めるように進言したが、内政の充実が先であるとして、中大兄皇子は聞き入れなかった。

 


「あの進言を聞き入れていれば・・・。」



と渡海する軍を見送る中大兄皇子が後悔しても、後の祭りであった。

 





003-4朝鮮半島に渡った倭軍は、各地で新羅軍を破り、百済の地を解放した。


そこで、唐は増援として、水軍
7,000名を派遣した。


唐、新羅連合軍は、水陸併進して、倭、百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。


これに対して倭国、百済連合軍は、既に百済軍の主軸であった福信が殺害されたために、百済軍自体が軍の形式をなしていなかった上、その混乱により、戦場への到着が、唐、新羅連合軍より遅れた。


地の利、人の和を欠いた状態の倭国、百済連合軍は、唐、新羅連合軍によって、白村江の戦いで散々に打ち破られてしまった


ここに百済復興は、事実上無くなったのである。

 



003-5この敗戦により、中大兄皇子は、唐、新羅連合軍による倭国侵略を恐れた。


そこで、九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて多数の山城や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。


更に「防人」制度を実施し、兵力の増強を図った


「防人」は、東国の農民を九州沿岸の警備兵として利用する制度だった。


衣食は全て本人の持参であり、任期は3年であったが、現実的には無きに等しかった。


また外交では頻繁に遣唐使を派遣し、唐に睨まれないように腐心した。

更に667年には、より内地になる近江に都を移した。(近江京)


003-6ここで初めて一息ついた中大兄皇子は、天皇へ即位することにした。

また、この間の甲斐あってか、670年に日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築くことに成功した。


ちなみに前年の
669年に、中大兄皇子の片腕として働いた中臣鎌足が病没し、「大織冠」と「藤原」の氏を授けられている。


「藤原」は、鎌足の出身地だったと言われている。

 



ところが同じ
670年に、旧百済領を巡って唐と新羅が対立したことから、日本の危機は大きく後退した。


そして
672年、天智天皇自身も崩御する。




sunwu at 21:02│Comments(0)TrackBack(0) 天皇親政時代 

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