2012年11月10日

第2回 中大兄皇子(大化の改新)

002-3 

蘇我宗家が滅んだ613日。


中大兄皇子は、阿倍内麻呂を密かに呼び出した。


同席しているのは、蘇我倉山田石川麻呂と中臣鎌足であった。



「内麻呂殿には、左大臣という役職に就いて貰いたい。」



中大兄皇子が唐突に申し出る。



「左大臣??」



聞いたことの無い職名に、内麻呂が戸惑う。



「今回、蘇我宗家を滅ぼしたのは、全ては唐の侵略に対抗するためです。」



中大兄皇子は、唐の脅威と、これまでの経緯、それと今後の展望を語った。



「全ての土地、民を天皇の下に置くと言うのは・・・・。」



内麻呂は戸惑いを見せた。


普通に考えれば、豪族たちが猛反発するのは明らかだからである。



「内麻呂さま。」



鎌足が言う。



「中華では、楚の悼王の下で同じことを目指した呉起は、悼王の死後、皇族、貴族たちに殺されました。秦の孝公の下で同じことを目指した商鞅は、孝公の死後、皇族、貴族たちに殺されました。ただ、違うのは、楚は改革を元に戻したのに対して、秦はその改革を続けたのでございます。そして秦は、始皇帝によって中華を統一したのです。」


「今、我々がやらねば、必ず倭は、唐に敗れる。唐に勝つためには、この改革が必要なのだ。」

中大兄皇子は、熱く語った。


「わかりました。引き受けましょう。」


「おお引き受けてくれるか、有難い!!」



ここまで中大兄皇子たちが内麻呂にこだわったのは、新政権の人事が、豪族や民の心を安定させるからである。


彼らは今、新政権がどのような政治を行うか疑心暗鬼になっている。


だから、新政権の人事を通して、その政権の将来を予測するのである。


そのためには、豪族たちから信望のある内麻呂を中枢に据えるのは、是が非にでも必要なことであった。







614日、皇極天皇は譲位し、弟の軽皇子を孝徳天皇として即位させた。


これは新政権が、旧政権と一変するということを暗に象徴させるための人事の一環であった。


皇位を生前譲位したのは、皇極天皇が始めてである。


この点だけとっても、異例中の異例であった。


また中大兄皇子自身が即位しなかったのは、自らが天皇になりたいために蘇我宗家を滅ぼしたと、諸皇子、諸豪族に思われないようにするためであった。


改革政権にとって、皇族、豪族や民から信用を得ることが最重要の課題であったからである。


そして左大臣には守旧派を代表して阿倍内麻呂、右大臣には豪族を代表して蘇我倉山田石川麻呂を任命した。


内臣に中臣鎌足、その頭脳として国博士に高向玄理と僧旻(日文)を任命した。


高向玄理と僧旻(日文)は、彼らの師であった南淵請安と共に留学生として隋に派遣された人だった。

 



6
19日、孝徳天皇と中大兄皇子は、群臣を大槻の樹に集めて、



「帝道は唯一である」


「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」



と述べて神々に誓った。


そして、大化元年と初めて元号を定めたのであった。

 



中大兄皇子と中臣鎌足は、昼夜を問わず、中央集権国家への道を探り、話し合った。


彼らにとっては、唐と対抗するためには、急がなければならない道だったのである。



「皇子、それでは豪族たちの反発をまともに受けますぞ。」



内麻呂が心配して言う。



「皇子が言われることはわかりますが、性急に行えば、余計に遠回りになることになることもあります。」



石川麻呂も賛同する。



「しかし、急がなくてはなにもならん。既に高句麗は唐に攻められたと百済から使いが来ているではないか。それに、このために、蘇我宗家を滅ぼしたのだぞ。」



中大兄皇子が熱く語る。



「しかし、両大臣のお言葉も一理あります。急劇な改革は、反対派を強固に結集させます。ゆっくりと改革し、反対派を個々に潰さない限り、成功しません。」



こうして鎌足がまとめるのが、いつものパターンであった。

 



しかしある時、鎌足が積極的に発言することがあった。



002-2「失礼とは思いますが申し上げます。皇子の兄君である古人大兄皇子には、死んで頂く必要があります。」


「既に僧籍に入り、吉野で蟄居していて、反抗もしていないのだぞ。」


「古人大兄皇子個人に問題があるのではなく、古人大兄皇子の立場に問題があるのです。」


「立場??」



中大兄皇子が鎌足に問う。



「古人大兄皇子が皇子の兄君だということです。皇子が改革を行えば、必ず旧勢力の豪族たちが反対に回ります。その豪族たちが旗頭に掲げるのが、古人大兄皇子なのです。」


「確かにその確率は高いが・・・・。」


「問題は、小さい芽の内に摘まねばなりません。だからこそ、蘇我宗家を滅ぼしもしたのではないですか。」



ここまで言われては、中大兄皇子はどうしようもなかった。


こうしてまず、
9月に中大兄皇子の対抗馬であった古人大兄皇子が攻め殺されたのである。

 


「都を飛鳥の地から難波に移すべきと思います。」



古人大兄皇子が葬った後、鎌足は遷都を進言した。



「飛鳥より難波の地に都を移せば、飛鳥に残る豪族たちも出ましょう。さすれば、豪族たちの力は弱まります。また、遷都することで、人心の一新にも役立ちます。」


「遷都はわかったが、どうして難波なのだ。」


「難波は孝徳天皇の領地があるところです。建造には莫大な費用がかかります。それを孝徳天皇に出させるのです。」


「なるほど。」



こうして、難波長柄豊崎宮(前期難波宮)に遷都された。


孝徳天皇は、その裏にあるものを知らずに、ただ子供のように喜んでいた。

 



そして翌
6461月、改新の詔が発布された。


ここで初めて、中央集権国家への国体変化が明らかになったのである。

 




≪改新の詔≫


1.
罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。


2.
初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河。


3.
初造戸籍計帳班田収授之法。


4.
罷旧賦役而行田之調。

 



002-11.
従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。(公地公民制)


2.
初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。(国郡制)


3.
初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。(班田収授法)


4.
旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度を策定することとする。(租庸調)

 




他にも、薄葬令を出し、殉死の禁止や、天皇の陵にかける時間を
7日以内に制限するなど、葬儀に対して制限が加えられた。


また、従来の世襲制の役職であった、伴造、品部を廃止し、特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止した。


更に、大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣・右大臣に置き換わった。

そして、礼法の策定、習俗の改革が行われた。

 



「ようやくここまで来た。後は、この詔を実践するだけだ。」



中大兄皇子と中臣鎌足は、感無量であった。


しかし予想通り、諸豪族たちは、この詔に対して猛反発した。


002-4諸豪族たちは、阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂に日参し、中大兄皇子と中臣鎌足の横暴を罵り、中央集権国家への移行を取りやめるよう説得してほしいと願ったのである。


最初は、諸豪族たちに理解を求めていた二人だったが、余りの反発の大きさに、いつしか自分たちも反対派の一員に変わってしまうのである。

 



そして、翌
647(大化3)年の冠位制度の改定の際に、中大兄皇子にとってショックなことが起こる。



「そなたたちまでもか・・・・。」


「皇子、どうぞご理解ください。豪族たちの不満は爆発寸前です。」



それは、冠位十二階を冠位十三階に改定したとき、左右両大臣、つまり阿倍内麻呂と蘇我倉山田石川麻呂が、新制の冠の着用を拒んだのである。


つまり二人は、改革に対して政権中枢から敢然と反旗を翻したのである。


こうなると改革どころではなかった。


中大兄皇子と中臣鎌足が、歯痒い思いをしたのは言うまでも無い。


ところが、
649(大化5)年に、左大臣阿倍内麻呂が死去する。


これは二人にとって千載一遇のチャンスであった。


直後に右大臣の蘇我倉山田石川麻呂に謀反の嫌疑をかけ、山田寺で自殺に追い込んだのである。


後任には、中大兄皇子と中臣鎌足に協調的な大伴長徳、巨勢徳多が選ばれた。

 



守旧派の諸豪族は、旗印の二人の大臣を失ったことから、今度は孝徳天皇に直訴するようになった。

こうなると、孝徳天皇と中大兄皇子の間に溝ができるのは、自明の理であった。


653
(白雉4)年、中大兄皇子が都を飛鳥に戻すことを願い出たが、天皇は許さなかった。


皇子は、皇極上皇と皇后、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に独断で遷った。


それに公卿大夫、百官の人々が皆従ったのである。


孝徳天皇は、中大兄皇子を恨んだのは言うまでも無い。


そして
654(白雉5)年、孝徳天皇は失意のうちに崩御した


このタイミングで中大兄皇子が即位しては、自らが天皇になりたいために孝徳天皇を死に追いやったと、諸皇子、諸豪族に思われてしまう。


そこで、中大兄皇子は苦肉の策として、母京極天皇を重祚させたのである。


生前譲位も異例であれば、重祚も異例であった。


そこまで中大兄皇子は追い詰められていたのである。



sunwu at 22:27│Comments(0)TrackBack(0) 天皇親政時代 

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