2012年11月27日

第19回 平忠常(平忠常の乱)

019-1

「殿。」


「どうした。」


「国司の平惟忠殿より税を納めよと再三にわたり書状が来ております。」


「無視しろ。」



酒を飲みながら忠常は、吐き捨てるように言った。


平高望の四男良文は下総国相馬郡を本拠にし、子の忠頼、孫の忠常の三代に渡り関東で勢力を伸ばしていた。



忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な荘園を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさないでいた。


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sunwu at 15:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

2012年11月26日

第18回 藤原隆家(刀伊の入寇)

018-2

「大変です、海岸に海賊たちが多数侵入し、島民を殺したり、火を放ったりしています。」


対馬国府は、騒然となった。


1019
(寛仁3)年327日、刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲したのであった。


国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。


賊徒は続いて、壱岐を襲撃した。



「対馬を襲った海賊たちが、この壱岐に到着しました。」


「よし、全兵に出陣を命令せよ。わしも行く。」



壱岐守藤原理忠は、ただちに
147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。


その結果、賊軍は、老人、子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。


理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。


これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。


そして賊徒を
3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。


その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。


この時、嶋分寺は全焼した。


4
8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、筑前国怡土の郡に襲来して、周辺地域を荒らし回った。


これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いた。



「海賊共を蹴散らせ!!」


「おー!!」



018-3たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。


このとき隆家は、三条天皇代に眼病の治療の為、進んで大宰権帥を拝命して大宰府に下っていた。


なお、権帥の任期が終わり帰京した寛仁
4年に、都に天然痘が大流行した。


刀伊が大陸から持ち込んだもので、隆家の入京とともに流行したと噂された。


これを
刀伊の入寇と呼ぶ。


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sunwu at 14:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

2012年11月25日

第17回 藤原道長(長徳の変)

017-1

「おい隆家。」


「どうしました兄上。」


「どうも花山法皇が、私の三の君に手を出しているらしい。」



藤原伊周は、大叔父に当たる藤原為光の三女である三の君を妾にしていた。


三の君は、花山法皇が出家する原因となった忯子の妹でもある。



「兄上の妾に手を出すとは、花山法皇とて許せませんな。私にお任せ下さい。」



こうして隆家は、三の君が住む屋敷の側で、花山法皇を待ち伏せた。


996
(長徳2)年116日、花山法皇が忍んで三の君が住む屋敷にやって来た。


そこで隆家は、従者の武士たちに花山法皇一行を襲わせ、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。


花山法皇が逃げ帰ったのは言うまでも無い。


実は花山法皇は、伊周の妾である三の君の所に来ていたのではなく、その妹の四の君の所に来ていたのである。


それでも、花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもってしまった。


しかし、花山法皇の従者たちからこの話は広まり、道長の耳に入ることとなった。


道長は、理由はどうあれ花山法皇に対して弓を引くのは無礼であるとして、藤原隆家を
4月に出雲権守に左遷された。


またその際、伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、こちらは大宰権帥に左遷された。


これを聞いた中宮定子は憂いで髪を切って尼となったが、後に天皇の命で宮中に戻っている。


これを
長徳の変という。



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sunwu at 14:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

2012年11月24日

第16回 藤原兼家(花山天皇出家事件)

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「忯子よぉ、どうして私を残して逝ったのだ。」


「陛下、そんなにお嘆きになると、お体にさわります。」



最愛の女御を失った花山天皇を藤原道兼が慰める。


花山天皇は情緒的な性格で、寵愛していた女御の藤原忯子が死去すると深く嘆き、思い悩むようになった。



「私は、忯子のいない人生など考えられないのだ、わかるか道兼。」


「そこまで陛下が言われるのでしたら、出家されてはどうでしょう。最愛の人を弔うために出家するのは、仏の教えでございます。」


「そうか、しかし私一人では心細いのう。」


「陛下には私が付いております。」


「道兼も、共に出家してくれるのか??」


「当たり前でございます。陛下の蔵人を務めているからには、陛下がドコに行かれようとも付いていきますぞ。」



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sunwu at 14:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 

2012年11月23日

第15回 藤原実頼(安和の変)

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「おい満季。」


「どうしました兄上。」



経基王は、源朝臣の氏姓を賜り臣籍降下した。


これが清和源氏の始まりである。


経基の子であった満仲、満季兄弟は、同じ源氏の源高明に仕えていた。



「今回、為平親王ではなく、守平親王が皇太子とされたのを知っておろう。」


「はい。」


「どうも高明さまは、ここまでのお人のようだ。これ以上高明さまに仕えていても、我らの勢力は伸ばせまい。」


「確かに。」


「そこで、我らの主を摂関家に変えようと思うのだが、どう思う。」


「それは名案だと思いますが、相手が我らを受け入れてくれるかどうか・・・・。」


「大丈夫だ。わしに一案がある。お前はわしの言うとおりに動け。」


「はいっ。」



こうして
969(安和2)年325日、源満仲は、高明邸を夜襲して源高明を拉致し、徐に謀議書を邸内に於いて発見したと嘯き、謀反を密告して事件の端緒をつくった。


その内容は、「為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝につけようとした。」ということだった。


更に源満季は、検非違使の地位を利用して、東国に地盤を持つ藤原千晴(藤原秀郷の子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。


その結果、源高明は、太宰員外権帥に左遷することが決定した


高明は長男忠賢とともに出家して京に留まれるよう願うが許されず、
26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。


また、藤原千晴は隠岐に流された。


密告の功績により源満仲は位を進められた。


また、左大臣には師尹が代わり、右大臣には藤原在衡が昇任した。


これを
安和の変という。


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sunwu at 14:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)摂関政治時代 
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