2012年12月16日

第29回 二条天皇(二条親政)

029-1

「何、父上が憲仁を皇太子にしようと企んでいるだと!!」


「いや、これはあくまで噂でございますれば・・・・。」


「父上の考えそうなことよ。よいな、確り探ってまいれ。」


「はっ。」



側近は慌てて二条天皇の前を辞した。


二条天皇は、後白河上皇と平滋子との間に生まれた憲仁王を警戒していた。


平氏一門が後白河上皇に就けば、一大事であった。


しかし、この陰謀には平清盛は関わっておらず、平時忠、平教盛、藤原成親と坊門信隆が主犯であった。


そこで二条天皇は清盛を更に尊重し、代わりに平時忠等陰謀に関わった者はすべからく解官した。


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sunwu at 14:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)院政時代 

2012年12月15日

第28回 藤原信頼(平治の乱後半)

028-4

「ほう、これが逆賊信西の首か。」



まじまじと信頼が見る。



「こうなれば哀れよのう。さて義朝。」


「はっ。」


「これからは、この信頼が信西に代わって政を執り行うぞ。」



信西が自害した
1214日、内裏に二条天皇、後白河上皇を確保して政権を掌握した藤原信頼は、勝手に臨時除目を行った。


この除目で源義朝は播磨守、嫡子の頼朝は右兵衛権佐となった。


信頼の政権奪取には、大半の貴族が反感を抱いた。


特に、二条親政派は、義朝の武力を背景とした信頼の独断専行の行動を見て、次は信頼打倒の機会を伺っていた。


その最中、東国より兵を率いて馳せ上った義朝の長子義平は、直ちに清盛の帰路を待ち構えて討ち取るよう主張した。



「父上、清盛は信西に優遇されいたと聞いておりまする。帰路を待ち構えて打ち果たした方が後顧の憂いが無くなります。」


「そうだな。」


「いや、清盛は味方になる。清盛は私の姻戚じゃ。敵にはならん。」



こう言って、信頼はその必要はないと退けた。


信頼からみれば、嫡男信親と清盛の娘との婚姻により、清盛も自らの協力者になると見込んでいたのである。


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sunwu at 14:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)院政時代 

2012年12月14日

第27回 藤原信西(平治の乱前半)

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「今や、信西如きがわが世の春か。」


「主要な役職は、全て奴めの近親者で固められておる。」


「後白河天皇のご寵愛を良いことに・・・・。」



このような陰口が宮中内で囁かれていたが、後白河天皇を擁する信西には、誰も手出しができなかった。


ところが、そこに美福門院の登場で大きく状況が変わるのである。


もともと後白河天皇の即位は、美福門院の養子である守仁親王が成長するまでの中継ぎとして実現したものであった。


成長した守仁親王の即位を迫る美福門院の要求を信西は拒むことができず、「仏と仏との評定」、すなわち美福門院と信西の協議の結果、後白河天皇は守仁親王に譲位させられてしまった。


後白河天皇は、信西が守ってくれると考えていたが、その期待が見事に裏切られたのである。


そもそも信西は鳥羽法皇の側近であったので、後白河天皇と同様に美福門院とも近い関係であった。


守仁親王が即位して二条天皇となっても、直ぐに排斥されるのは信西ではなく、後白河上皇であったのである。


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sunwu at 13:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)院政時代 

2012年12月11日

第26回 後白河天皇(保元の乱)

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「陛下、時は満ちましたぞ。」


「信西、待ちわびたぞ。好きにするが良い。」


「はっ。」



後白河天皇の前から下がった信西は、高階俊成と源義朝に、兵を率いて頼長の邸宅を急襲して没官するように命じた。


追い詰められた藤原頼長は、大義名分を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決めた。



「上皇さま、今が好機ですぞ。上皇さまを蔑ろにする美福門院や後白河天皇を討つには、今しかありません。」



崇徳上皇は気乗りしなかったが、鳥羽法皇崩御の時の屈辱感を思い出して、頼長に担がれることを決めた。


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sunwu at 11:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)院政時代 

2012年12月06日

第25回 鳥羽上皇(院政の確立と摂関政治の衰退)

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1129(大治4)年77日に77歳で白河法皇が崩御すると、治天の君は鳥羽上皇に移った。



「やっと白河法皇が死んだか。」


「陛下の忍従も、やっと晴れますな。」


「これまで耐えられたのも、家成、そちのお陰ぞ。」


「勿体ないお言葉でございます。」

 


鳥羽上皇は、白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して、娘の泰子を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。


さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮璋子に代わり、院近臣であった藤原長実の娘得子(美福門院)を寵愛した。


そして、その間に生まれた皇子である体仁親王を近衛天皇として即位させた。


このとき、皇太子ではなく、皇太弟として即位したので、崇徳上皇の院政への道は閉ざされることになった。



「皇太弟としたことで、上皇さまは酷く御立腹とか。」



得子が鳥羽上皇に言う。



「叔父御(崇徳)に皇統を継がせる訳が無かろう。」



鳥羽上皇は、崇徳上皇を自分の子とは考えておらず、白河法皇の子と考えていた。


だから「叔父御」と言うのである。



「皇統は、我が子孫が継ぐのだ。」

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sunwu at 11:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)院政時代 
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